おはようございます。
医師のキャリアプランを軸にして
転職、開業、経営シーンでサポートし続ける
ジーネット株式会社の小野勝広です。
昭和…。
早くも随分前の事のように思われます(苦笑)。
しかし現代社会は間違いなく昭和の名残りであり、
平成そして次の元号も昭和があってこそなんですよね…。
本日のブログのタイトルは、
【 昭和のエートス 】といたしました。
本書をピックアップした理由
『 昭和のエートス 』
内田 樹 文春文庫 を読みました。
そろそろ平成の世も終わろうとしています。
私の世代にとっては、
平成よりも昭和の方が馴染みがあると思うのです。
しかし2世代前となると
随分昔の話しになってしまいますよね。
次の時代が来る前に
昭和を完結させないと…と思い
敬愛する内田樹さんの著書の中で
ちょうど昭和について書かれたものがあり、
喜び勇んで読み始めた次第です。
目次
第1章 昭和のエートス
第2章 国を憂うということ
第3章 情況への常識的発言
第4章 老いの効用、成熟の流儀
感想
いやいやいや…、
この本もスゲー。
深い思考と広い視野…。
考えさせられる内容の連発です。
もう私の言葉なんて要らないので、
私が本書の中でグッときた箇所を
ドシドシとご紹介いたします。
貧困は経済問題であるが、
貧乏は心理問題である。
「意味の問題」と言う事もできるし、
「関係の問題」と言う事もできる。
とりあえず数字で扱える問題とは次元が違う。
(P38 貧乏で何か問題でも?)
コミュニケーションが
成立していないと論争にはならない。
論争には相手に対する敬意が不可欠なのである。
喧嘩というのは「勝ち負け」である。
「勝ったり負けたり」するから喧嘩になるのであり、
そのためには
「どういう場合に勝ち、どういう場合に負けるか」
についての通則が双方に共有されていなければならない。
最近子どもたちが喧嘩をしなくなったということは、
当然「論争」もしなくなったということだろう。
それは子どもたちにとって
自分にとっての「自然」が圧倒的なリアリティを持ち、
それを理解できない他者、
それに共感してくれない他者はいわば
「透明な存在」として
あたかも存在していないかのように扱われるという作法が
一般化しているということではないかと思われるのである。
(P51 喧嘩の効用)
人々は自分のものではない記憶を
自分自身の記憶と混同することができる。
「世代的記憶」を共有するためには、
必ずしもある出来事や、
ある感情を個人的に経験している必要がない。
(P56 団塊の世代からの発言)
「適切な負け方」の第一は、
「敗因はすべて自分自身にある」という
きっぱりとした自省である。
負けたのはチームメートのエラーのせいだとか
監督の采配が悪かったからだとか
言い逃れをする高校球児は
誰からのリスペクトも得ることができないだろう。
第二は、「この敗北は多くの改善点を教えてくれた」と
総括することである。
負けた後に「私たちとしてはベストを尽くしたので、
もうこれ以上改善努力の余地はない」という人間は
敗北から何も学んでいないことになる。
第三は、「負けたけれど、とても楽しい時間が過ごせたから」
という愉快な気分で敗北を記憶することである。
こう書き並べると、「そんなこと当たり前じゃないか」と
憤慨する人がいるかもしれない。
だが、本当に、「そんなこと当たり前」と言い切れるだろうか。
(P60~61 負け方を習得する)
推論の適法性とか、
論拠の明証性とかいう学会ルールに
私はひさしく慣れ親しんでいたが、
実際に私たちが判断のよりどころとするのは、
理説の「政治的正しさ」やデータの緻密さではなく、
人間の人間を見る目の確かさだけなのである。
(P80 反時代的考察)
何かが存在することを
人に信じさせるもっとも効果的な方法は、
「それが存在する」と声高に主張することではない。
「それはもう失われてしまった」とつぶやくことである。
これは誰の創見でもない。
「起源」を厳密な仕方で基礎づけようと試みた哲学者たちは
多かれ少なかれ似たような語法にたどりつく。
(P89 白川先生から学んだ二、三のことがら)
言語は人間的な事象である。
あるいは人間は言語的な事象であると言い換えてもよい。
「はじめに言葉があった」というのは
人間と人間的世界が言葉と同時に誕生したということである。
呪いは人間的な事象である。
自然のうちには呪いなど存在しない。
人間だけが人間を呪い、
人間だけが祓うことができる。
それは人間世界内部でのみ通用する「通貨」である。
祝福も同じである。
人間だけが言葉によって破壊され、
人間だけが言葉によって再生される。
(P98 白川先生から学んだ二、三のことがら)
受験勉強では努力と成果の間に「正の相関」があり、
個人的努力の成果は本人が100%占有することが許される。
(中略)
けれども、私たちの日々の仕事の現場では
むしろそちらの方が常態なのである。
仕事のほとんどは集団の営為であり、
利益は分配され、
リスクはヘッジされる。
人間的労働は集団的に行われることで効率を高め、
クラッシュを回避する。
そういうメカニズムである。
(P129 なぜ私たちは労働するのか)
自己努力の成果が迅速かつ適切に評価されて
応分の褒賞が得られるシステムを要求するということは、
言い換えれば自己努力のために成果を上げられなかったものが
迅速かつ適切に社会的低位に格付けされるシステムの構築に
同意することを意味している。
徹底的な能力主義の導入による
格差解消という構想のアポリアはこの点に存する。
すなわち、弱者の側からする「より合理的なシステム」の要求が、
要するに弱者の入れ替えをしか意味しないということである。
「入れ替えられた」弱者たちも
いずれまたその格付けを不当として、
より厳正で客観的な査定を要求するであろうから、
能力主義の徹底が問題の解決に資する可能性は
論理的には限りなくゼロに近い。
(P141~142 善意の格差論のもたらす害について)
どのような社会でも能力の差があり、
条件の差がある限り、
社会的リソースの分配において多寡の差は発生する。
問題を深刻にするのは、そのときに、
「自分の取り分」について占有権を主張することは
「政治的に正しい」と見るか、
「疚しさ」を感じるか、
そのマインドの違いである。
(P146 善意の格差論のもたらす害について)
たしかに
「今よりもっと弱肉強食の社会になれば弱者にもチャンスがある」
というのは一面の真理を含んでいる。
けれども、その一面の真理にすがりつく人は
「弱肉強食の社会で弱者が背負うリスク」を過小評価している。
強者とは「リスクヘッジできる(だから何度でも失敗できる)
社会的存在」のことであり、
弱者とは「リスクをヘッジできない(だから1度の失敗も許されない)
社会的存在」のことである。
社会における人間の強弱は、
成功できる機会の数ではなく、
失敗できる機会の数で決まるのである。
私たちは近代市民社会の起源において
承認された前提が何だったかもう1度思い出す必要があるだろう。
それは「全員が自己利益の追求を最優先すると、
自己利益は安定的に確保できない」ということである。
この経験則を発見した人々が近代市民社会の
基礎を作ったのである。
(P148~149 善意の格差論のもたらす害について)
学校教育、とりわけ公教育は
市場原理を貫徹させるために生まれたものではない。
むしろ市場原理が人間生活の全場面に貫徹することを阻止し、
親と企業による収奪から
子どもたちを保護するために誕生したものである。
(P155 市場原理から教育を守るために)
国際関係論では、
このラットレースで負けることを「リスク」、
レースの行われるアリーナそのものが消失するような
予測可能・考量可能な危険と、
この2種類の危険を私たちは生き延びる上で
勘定に入れておかなければならない。
(P166 父の子育て)
権力その他の社会的資源が
男性に優先的に分配されてきたのは紛れもない歴史的事実である。
だが、そのことと女性もまたそのような資源を切望しており、
その平等な分配を求めてきたという判断は論理的にはつながらない。
むしろ、女性はそのような社会的資源の幻想性に対する
批評的立場を維持してきたのではないだろうか。
権力・威信・財貨・情報・文化資本といった
資源の本質的機能は差別化に存しており、
そして差別化は同質集団の中でしか成立しない。
(中略)
人間が人間を殺すことができるような場合に限って
「権力」という言葉は使われる。
帰属するカテゴリーを異にする個体間に
権力関係は発生しない。
学校の管理責任や教師の教育力不足を
きびしく批判する親たちの指摘には根拠があることを私は認める。
だが、その批判が学校を子どもにとって快適な場所にし、
教師の能力向上に資するか、
その逆の効果をもたらすかは熟慮すべきだろう。
医療事故も同様である。
医療事故をきびしく告発することによって
医療の質が向上すれば患者は利益を得る。
だが、訴訟を嫌う医師たちがトラブルの多い
診療科勤務を避ければ患者たちは
受診機会を失うという不利益をこうむることになる。
自己利益追求のために人々があまりにも要求をつり上げ、
他者に対して過度に不寛容になると、
社会システムが機能不全に陥ることになる。
クレームによって確保される利益と
不寛容がもたらす不利益のどちらがより大であるかについては、
慎重な吟味が必要だろう。
(P227 「モンスター親」は存在しない)
コンピュータを使えば私たちはほとんどあらゆる情報を
瞬時のうちに検索することができる。
しかし、コンピュータにもできないことがある。
それは、「私たちが知らないキーワード」で
検索をかけることである。
そして、教育は
「私たちがそのようなキーワードが存在することさえ知らなかったキーワード」
との遭遇から始まるのであり、
そこからしか始まらない。
(P231 彼らがそれを学ばなければならない理由)
以上です。
引用が長くてすみません。
でもいずれも私自身は非常に考えさせられた箇所です。
前後の文脈がないとわかりにくい所もあるかもしれませんが、
それにしてもこの論考、頭が下がります。
きっと他の方は違う部分で思う所が出るでしょうし、
いずれにしても「考えるきっかけ」が手に入る良書です。
評価
おススメ度は ★★★★★ と満点といたします。
いや数ある内田樹さんの著書の中でも
本書はトップクラスに良いです。
上記では紹介できなかった箇所でも、
そしてアルベール・カミュについての章は
実に、実に勉強になりました。
いや~、この本は多くの方に手に取って欲しいなあ。
内田ファンの私だからではなく、
心底そう思いながら読後に爽快感を得る事ができる
素晴らしい本との出会いでした。
それでは、また…。
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