おはようございます。
医師の転職、クリニック開業を
キャリアプランを軸にしてサポートする
ジーネット株式会社の小野勝広です。
世知辛い世の中です。
自分の頭で考えて、
自分なりのサバイバル戦略を
確固として持たねばなりませんね…。
本日のブログのタイトルは、
【 待場の文体論 】 といたしました。
本書をピックアップした理由
『 待場の文体論 』
内田 樹 文春文庫 を読みました。
まあ内田樹ファンの私ですから、
内田さんの著書には
私の知性や教養を起動させるスイッチみたいなものがあって、
いつも読み始めると
なぜだか自分が少しだけ賢くなった気がして、
(もちろん気だけなんですけど)
知的好奇心が最高潮になるのです。
この瞬間というのが
私にとってはとても心地良く、
やめられない止まらないかっぱえびせん状態に
陥らせてくれます(笑)。
まあそんなこんなで今回は文体論。
これは内田さんの得意分野じゃないかな?と
大いに楽しみにしながら手に取った次第でした。
目次
・言語にとって愛とは何か?
・「言葉の檻」から「鉱脈」へ
・ストカスティックなプロセス
・世界性と翻訳について
・エクリチュールと自由
・「宛て先」について
・「生き延びるためのリテラシー」とテクスト
・鏡像と共ー身体形成
・意味と身体
・クリシェと転がる檻
・リーダビリティと地下室
感想
本書は内田先生がかつて教鞭を取っていた
神戸女学院大学の最後の講義、
「クリエイティブ・ライティング」の授業で
話された内容をまとめておられます。
と言うのを私は読み始めてから知った訳ですが、
さすがに最後の授業という事もあり、
熱量が違う…。
何だろう、
内田さんが学生に対して
最後の言葉として言い遺しているだけあって
話しの濃さが半端ない。
クリエイティブ・ライティングとは
文学と言語について
そして他者に届く言葉とは何ぞや?という
テーマであるのだけども、
まあ案の定というか
そんなテーマだけに収まらず
話しはどこまでも広がり、
どこまでも深く掘り下がる…。
正直、超絶面白かったです。
さてその超絶ぶりを
恒例の私がグッときた箇所紹介で
少し披露いたします。
数十年に渡り賢愚とりまぜ腐るほどさまざまな文章を読み、
また自分も大量の文章を書いてきた結果、
僕は「書く」ということの本質は
「読み手に対する敬意」に帰着するという結論に達しました。
それは実践的に言うと、
「情理を尽くして語る」ということになります。
(P.20)
今の日本を見ていると、
「他の人と変わらないように標準的にふるまっていれば安全」
という生存戦略はもう通用しなくなりつつある。
帰属している集団のサイズが大きいということは、
その集団が正しい方向に進んでいるということを
必ずしも意味しません。
今の日本のような、
地殻変動的な社会の変化が起きているときは、
むしろ最大集団のほうが
環境に適応できなくなっている可能性がある。
マジョリティが「正しい方向」に進んでいたら、
これほどの社会変動が起こるはずがありませんから。
マジョリティが「行ってはいけない方向」に逸脱していったからこそ、
制度がきしんで、システムのあちこちが綻びている。
そうじゃないかと僕は思っています。
マジョリティが危ない方向に向かっているとき、
生き延びるためには、
みんなは「向こう」に行くけど、
自分は「こっち」に行った方がいいような気がするという、
おのれの直感に従うしかない。
そういう危機に対する「センサー」を
皆さんにはぜひ身に付けていただきたいと思うんです。
そして、そのセンサーを研ぎ澄ますための
きわめて重要な訓練が「ものを書く」ということなんです。
(P.39~40)
リテラシーというのはそういうものなんです。
リテラシーというものは、
自分では自分が何をしているかわからないままに
行使されている能力なんです。
自分がどのようなリテラシーを駆使しているかがわからないから、
それはリテラシーなんです。
(P.63)
トラウマというのは、
「それを適切に言語化できない」という
無能力そのものが、
その人の人格の根源的な部分をなすような経験のことです。
だからもし、トラウマを言語化できたとしたら、
それを言語化できた人は、
もともといた「トラウマを抱えた人」とは
もう別人になっている。
治療的にはそれでオーケーなんです。
でも、前にいた「トラウマを抱えた人」は、
いわば並列する「多元宇宙」のどこか別の宇宙に放り出されて
そこで永遠に癒されないトラウマに苦しみ続けることになる。
(P.111)
皆さんは「神戸女学院大学の学生らしい話し方」をしている。
言葉づかいだけじゃなくて、
服装も髪型も化粧も歩き方も、
おしゃべりの話題も、そのコンテンツも、
うっかりすると結論まで、
でも、気づかない。
別に気づかなくてもいいんですよ。
そうやって集団的に互いに似てきても、
実害があるわけじゃないから。
ただ傍からは個体識別できなくなるというだけのことです。
でも「個体識別できない」というのは
言い方を変えると「いくらでも替えが効く」ということです。
ひどい言い方をすれば、
「いなくなっても誰も気がつかない」ということです。
エクリチュールの及ぼす標準化圧力に対して
あまりに無自覚だと、
人間としての扱われ方が雑になるという
リスクを引き受けなければならない。
そういうことです。
(P.128~129)
死ぬ直前においてのみ美は成就する。
夭逝することだけが許されて、
長命を望むと堕落が始まる。
それがエクリチュールの宿命であるなら、
言語の美の可能性は生成と堕落、
創造と死滅の「はざま」にしかないということになります。
(中略)
リーダブルであることが必須です。
リーダブルでなければならないが、
同時に前代未聞の精神の運動が今始まりつつあることを
あきらかにしないといけない。
何を言っているのか、
わかってもらわないと困るが、
何を言っているのか、
すらすらわかられても困る。
(P.156)
社会の変化が速いところでは、
伝統的な価値観や
ライフスタイルを墨守しているだけでは取り残される。
かといって「最新流行にキャッチアップする」という
タイプの発想をする人は結局つねに「後手」に回ってしまう。
急激な変化に振り回されないためには、
中長期的な展望を持たなければならない。
少し肩の力を抜いて、
軽快なフットワークで、
細かいところは飛ばして、
大筋の流れを見誤らないようにするという
知的な訓練が求められる。
(P.190)
先行きの見当がつかない。
そういうときは、
「生き延びるためのリテラシー」を上げるほかない。
豊かで安全な社会では、
生き延びるためにどうするか、
というようなことは考えなくても済みます。
(中略)
でも、今の日本はそうではありません。
まだそうだと思っている
「無根拠に楽観的な人たち」はたくさん残っていますけれど、
彼らは社会の劇的な変化を見ていない。
見ているんだけれど、
何が起きているのか考えたくないので、
目を逸らしている。
(P.192)
それは知的能力を社会的格付を上げ、
資源配分における有利なポジションを得るために使おうとすると、
人間はいずれ自分の同国人たちができるだけ無能で
怠惰であることを願うようになるからです。
そのほうが自分の分配比率が増大するように思えるから。
もし、明治期の日本において、
競争原理を採用して、
ある程度の知的素養がある人間にとっては、
同国人が無能であり怠惰であるほど、
自己利益が増大するというルールで社会を運営していたら、
とうに日本は滅びていたでしょう。
(P.281~282)
生き方、考え方を教えてくれる内田さん。
私も内田さんの授業を受けてみたかったなあ。
東京でそんなイベントやってくれないかなあ?
医業種交流会の勉強会で
講演してもらえばいいんだ!なんて思うけど
そんな簡単ではないよな~(苦笑)。
どこかで直接お話しを聞ける機会を探します。
評価
おススメ度は ★★★★★ と満点といたします。
言葉がほとばしる。
伝えたい事がたくさんある。
俺の話しを聞け!
本書にはそんな迫力があります。
だから一気に読み込めると思います。
友人の何人かに内田さんの著書をおススメしたのですが、
読んだ奴はみな口を揃えて勉強になったと言います。
読まない奴は言い訳します。
いずれが成長するかは自明ですね。
内田さんの言葉、考え、著書ってそういう意味では
人を判断する基準になるのかもしれないなあ。
内田さんに興味を持った段階で勝ちみたいな。
私は虜になってますんで、
これからも内田本は読み続けますし、
こうしてきちんと書評も書いてまいります。
それでは、また…。
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