おはようございます。
医師のキャリアプランを研究し続ける
ジーネット株式会社の小野勝広です。
自分の関心のない領域でも
自分がリスペクトしている人が語るなら
つい読んでみようと思う事ってありますよね。
今回はまさにそのパターンです。
果たしてどうなるものやら…と思いつつ
半信半疑な感じでしたが…。
本日のブログのタイトルは、
【 待場のマンガ論 】
といたしました。
本書をピックアップした理由
『 待場のマンガ論 』
内田 樹 小学館クリエイティブ を読みました。
この待場シリーズは
私の知的好奇心をくすぐり続けています。
しかし本作は何とマンガ論。
それほどマンガ好きではない私ですので
読むかどうか悩みました。
でも敬愛する内田樹さんですし、
読まねばアカンやろうと思い
こわごわと手に取った次第でした。
目次
第1章 井上雄彦論
第2章 マンガと日本語
第3章 少女マンガ論
第4章 オタク論・ボーイズラブ論
第5章 宮崎駿論
第6章 マンガ断想
第7章 戦後漫画家論ー戦後漫画は手塚治虫から始まった
感想
まあ正直いきなり井上雄彦さんで
読んでいない私はまるでチンプンカンプン。
しかもその後は少女漫画について語られて…。
いやはや全くの未知の世界。
おまけにボーイズラブなんて
これっぽっちも興味ないし…。
宮崎駿さんが出てきた時には
ようやく少し理解ができましたけど、
なかなか微妙な1冊でした。
きっとバッチリ合う方もいるとは思います。
ただ私がそうではなかった…というだけです。
ところがですね、
マンガ云々の箇所はわからずとも、
さすがの内田樹さんです。
ところどころに
非常に考えさせられるところあり、
感銘を受けるところあり、
こういった点に関しては
実によい勉強となりました。
下記に代表的なところを記載しますが、
マンガを通して
生きるとは?人間とは?人生とは?を
熟慮させられるとても面白い1冊でもあります。
それでは恒例の私がグッときた箇所をご紹介します。
人が二十歳になるかならぬかで、
ばたばたと死んでゆくような時代の「子ども」は、
短期間に一気に「おとな」になる以外に
生き延びる術がない。
(P.23)
彼らの対話はある論件に
決して決着をつけないことをめざして展開した。
たいせつなのは、
結論を得ることではなく、
問題を未来の律法修学生のために
開放状態にとどめておくことだったからである。
(P.40)
どうして漢字、カタカナ、
ひらがな、アルファベットが並存するような
言語が成り立ちうるのか。
あまりに当たり前なので、
ふだんは私たちはあまり考えない。
(中略)
なぜ日本人は識字率が世界でもっとも高いのか。
私は長いことその理由がわからなかったが、
先般、養老孟子先生にその理由を教えていただいた。
それは、日本人が文字を読むとき
脳内の二か所を同時に使っているからである。
漢字は表意文字であるので、
図像として認識される。
ひらがな・カタカナは表音文字であるので、
音声として認識される。
図像を認識する脳内部位と、
音声を認識する脳内部位は
「別の場所」である。
文字を読むときに単一の部位を使うのと、
二つの部位を使って並列処理をするのでは、
作業能率が違う(たぶん)。
だから、日本で、マンガが生まれた、
というのが養老先生に仮説である。
(P.44~46)
人間とは時間の中を行き来するものだ。
(P.62)
「なぜ、わたしは『このようなもの』として、
ここにあり、
『これとは違うかたち』を取らなかったのか?
いかなる条件が
私を『このようなもの』たらしめたのか?」
そう問うのが真に「歴史」的な
ものの見方であると私は思う。
(P.106)
私たちは
「人間であることを止める」という
方向に向かって、
あるいは「人間」ということばに
これまでとは違う定義を
与える方向に歩んでいる。
ことはきわめて重大な
文明史的決断にかかわっている。
そのような決断の場面に向けて
私たちが向かいつつあること、
これは否定しがたい事実である。
けれども、それが
「前代未聞」の岐路であるということは、
もう少し強く自覚した方がよいと思う。
そういう大事な決断に際しては、
手持ちの正否理非の基準を
軽々に適用すべきではないと私は思う。
とりわけ、「自己決定」とか
「主体性」というような
「軽い」言葉を用いるべきではない。
(P.118~119)
どのような「流行」にも、
必ずその先駆的形態があります。
先駆的形態が、
何らかの歴史的条件の変化によって
棲息困難となり、
新たな環境に適応して変身した
「アヴァター」(化身)が、
「あるとき突然流行し始めたもの」なのです。
突然、ゼロから流行し始めたわけではありません。
何かが消え失せ、
それが果たしてきた機能を代替するものとして
何かが出現するのです。
ただ、その相貌が
あまりに先駆的形態と似ても似つかないので、
人々の眼には、
その系譜的関係が見えない。
それが文明的な意味での「アヴァター」です。
(P.121)
あらゆる仕事には端的に、
「それで飯が食えるかどうか」という
きわめてクールでリアルな分岐線がある。
あまり言う人がいないので、
代わって申し上げるが、
専門的な技能や知識と
「食える・食えない」分岐線の間には
直接の関係はない。
どれほど専門的に高い技能や
深い知識があっても、
それに対して対価を支払う市場がなければ、
「それでは食えない」。
(P.137)
足元を見よ。
そこからしかお前の歩みは始まらない。
私たちが普遍性に行き着く隘路があるとしたら、
それは足元からしか始まらない。
(P.142)
生まれたときから
現在の年齢までの
「すべての年齢における自分」を
全部抱え込んでいて、
そのすべてにはっきりとした
自己同一性を感じることができるという
ありようのことを
おそらくは「老い」と呼ぶのである。
幼児期の自分も少年期の自分も
青年期の自分も壮年期の自分も、
全員が生きて今、
自分の中で活発に息づいている。
そして、もっとも適切なタイミングで、
その中の誰かが「人格交代」して、
支配的人格として登場する。
そういう人格の可動域の広さこそが
「老いの手柄」だと私は思うのである。
(P.152)
人は幸福に生きるべきだ、と人は言う。
私もそう思う。
でも、たぶん「幸福」の定義が少し違う。
そのつどつねに「死に臨んで悔いがない」状態、
それを私は「幸福」と呼びたいと思う。
幸福な人とは、快楽とは
「いつか終わる」ものだということを知っていて、
だからこそ、「終わり」までの
すべての瞬間をていねいに生きる人のことだ。
だから「終わりですよ」と言われたら、
「あ、そうですか。はいはい」というふうに
気楽なリアクションができる。
それが「幸福な人」である。
「終わり」を告げられても
じたばたと
「やだやだ、もっと生きて、もっと快楽を究め尽くしたい」
と騒ぎ立てる人は、
そのあと生き続けても
あまり幸福になることはできないだろう。
幸福な人は、
自分が幸福なだけでなく、
他人を幸福にする。
(P.200~201)
評価
おススメ度は ★★★★☆ といたします。
井上克彦氏と少女漫画が好きな方は
きっと面白く読めると思います。
私はいずれもほとんど知らなかったので
よくわからなかったです。
でもわからないからと言って
つまらなくないのが内田樹さんの真骨頂。
なぜそういう展開になる?という
多少強引でも内田ストーリーが弾けています。
まだしばらくは内田本には
手を出し続けそうです。
それでは、また…。
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