ある読書好き医療コンサルタントの書評ブログ!

年間60~70冊ほど読んでます。原則毎週日曜日に更新しますが、稀にプラスαもあります。本好きの方集まれ!

限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

 

おはようございます。

 

読書がライフワークになっている

医療業界のコンサルタント

ジーネット株式会社の小野勝広です。

 

世の中には自分ではわからない、

理解できないことって多いですよね。

 

私はそれでいいと思っていて、

「今」はわからないというのは出発点です。

 

素直に認めて、

わかるようになるにはどうしたら良いか?と

考えます。

 

ま、学ぶしかないんですけどね…。

だから読書をしていても

わからないというのは

私にとってはあまり気にならず

わからないなりに読み込みます。

 

こうしてわからないチャレンジを繰り返すと

いつの間にか少しずつわかってくるものなんですよね。

 

ということで、

今回はわからないチャレンジを果敢にいたしました(笑)。 

 

今回ご紹介する書籍は、

【 限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学 】 です。

 

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本書をピックアップした理由

『 限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

宮台 真司 北田 暁大 双風社 を読みました。

 

今回は宮台真司さんです。

私はかなりリスペクトしていて、

宮台さんの著書は読もうという気になります。

 

今までも…

 

ka162701.hatenablog.com

 

ka162701.hatenablog.com

 

ka162701.hatenablog.com

 

これらを読んでおり、

少しずつですが手を出すようにしています。

 

今回は後輩の社会学者である

北田暁大さんとの対談です。 

 

パラパラと捲ると

ちょっと難解そうですが、

なんくるないさ~と読み始めた次第です。 

 

目次

まえがき  北田暁大

第一章 空虚な時代を生きる
一 保守思想を考える
  あえてするコミットメントと保守主義の台頭
  崩壊するコミュニケーションの地平
  ホンモノの右翼と保守
  左派によるロマン主義への繊細な考察
  人間の理性は世界を覆えるのか
  私たちが物事をまじめに考える動機

二 アイロニーロマン主義、そして社会学
  思考のパッケージとしてのハーバーマスルーマン論争
  社会学とロマン派とアイロニーの結節点
  天皇論を持ち出すことの本意
  ロマン主義とは何か
  「超越系」と「内在系」
  認識上の転向、実在上の非転向
  形式を反復するロマン主義の罠
  アイロニカルな社会学が立ちあがる土壌としての日本
  この空虚な時代を、どう色づけしていくのか

第二章 文化を記述する方法
一 「価値自由」とは何か
  あえてウェーバーの価値自由を提唱する
  理論家/実践家としての廣松渉
  上野千鶴子という非還元主義者
  私が社会学者になった理由
  「理論家」宮台と「文化社会学者」宮台は断絶しているのか?
  日本のカルチュラル・スタディーズの問題点
  いまなぜ「政治の季節」を語るのか
  人はなぜ全体性に惹かれるのか
  政治への意志を社会と接続していく

二 文化を研究することの意味
  流動性への抵抗力を供給するサブカルチャー
  認識は脱政治的に、実践は政治的に
  カルチュラル・スタディーズのあるべき姿とは
  非還元論的な文化研究をめざす
  文化を記述することの難しさ
  社会学的な想像力を磨く
  モードの変化に気づく力を養う
  反省を分析する手法の開発が求められている
  限界の思考

第三章 社会学はどこへ向かっていくのか
一 「意味なき世界」とロマン主義
  人間であり続けることは、どういうことなのか
  ロマン的なものと動物的なものが反復する社会
  近代システムの特徴としての再帰性
  ロマン主義再考
  日本は思想の全体構造を見わたしづらい?
  かつて想像された全体性がよみがえる
  「意味なき世界」を肯定するような習慣

二 「脱呪術化という呪術」の支配に抗う
  人間は壊れているという自覚
  乾いた語り口が切り開く思考空間を求めて
  ローティの「反思想という思想」
  虚構のうえに成り立つ近代社会という前提
  社会学者はいま、何をすべきなのか
  保守主義構築主義というふたつの武器
  超越への断念と批判への意志を貫く 

第四章 アイロニー社会学
一 戦略的アイロニズムは有効なのか?
  時代とともに変化するアイロニーの構造
  ポスト八〇年代をどう見るのか
  日本には「消去しきれない理念」がない
  オブセッションが人をどう駆動するのか
  大澤真幸の単純さ
  アイロニーオブセッションへと頽落する戦後サブカル
  戦略的アイロニズムオブセッションへの処方箋
  オブセッシブな後続世代は、先行世代の餌食

二 楽になるための歴史と教養
  若い世代は軽いようで重い
  教養という旅をした世代、旅ができなかった世代
  八〇年代を退落の時代と位置づけてよいのか
  視界の透明性が存在しない後続世代
  歴史地図のなかに価値を滑り込ませたくない
  七〇年代的アイロニーを再評価することの危うさ
  歴史をとおして自分の位置を確認する

第五章 限界の思考
一 全体性への思考と専門知
  強迫性を解除するための方策とは
  奇妙なかたちで流用される専門知
  何が道具で何が知識なのかを考える
  教養主義者としての蓮實重彦
  依拠すべき参照項の消えた時代

二 社会の操舵が困難な時代
  いまこそギリシャ哲学に学べ
  分析哲学を見直す
  オースティン、サール、そしてデリダ
  何を意図しているのか、はじめに話してしまったほうがよい
  宮台アイロニーへの思い違い
  『歴史の終焉』という終焉を生きる
  啓蒙の対象はエリートなのか大衆なのか
  合理性のない欲望が肥大化する日本社会
  国粋はかならずしも、愛国の体をなさず
  公共的であることの困難

あとがき 宮台真司 

 

感想

う~む、かなり難しい。

難しいのだけどなぜか読み進められる。

 

宮台さん、北田さんともに

知性溢れるとても頭の良い方です。

そんな2人の対談ですから

まあわかりやすくはならないのでしょうね…。

 

ただ言わんとしているところを

何となく掴むことはできた気がします。

 

社会学という学問自体が

まだまだ私の中で明瞭になっておらず、

どこまでの領域なのか

探り探りで読み込んでいったのですが、

守備範囲が広く、

縦にも横にも斜めにも、

前にも後ろにも行ったり来たり。

 

でも私には知っておくべき重要な内容と思えましたし、

決して理解度は高くないけど

多少なりともガツンと頭に入ってくるところはありました。

 

社会の仕組みや構造、

人間とは何か?

そういった課題、疑問を持っている方には

最適の書と思います。 

 

それでは恒例の私がグッと来た箇所をご紹介します。

今回はちょっと多めです。

 

主知主義は人間的理性を信頼するので

計画万能主義を帰結しやすく、

規定不能なものや未規定なものを

不安がる心性にむすびつきます。

こうした心性を、ヘタレ(依存)として退ける

初期ギリシャ思想をルーツにするのが主意主義

主意主義は、神と同じく人間の意思をも

理性に還元できない端的なものと見なすので、

不条理や規定不能性を

あらかじめ前提とする態度を帰結します。 

実存的には不安ではなく内発性を、

コミュニケーション的には不信ではなく信頼を

ー総じて飛躍をー推奨します。

(P.33~34)

 

自己決定がおのずと「他なるもの」に

貫かれるようにさせるべく、

年長世代が年少世代のための成育環境をセットアップする、

という意味での再帰性ならば、僕は肯定します。

「これが伝統だ、自己決定は認めない」といった

たぐいの再帰性ならば、僕は認めません。

近代主義と右翼性を両立させる」には

論理的にはこれしかないでしょう。

(P.37)

 

「保守化」や「ロマン主義」化が進行する情況を、

左翼的な言説がただ単に「反動だ」とか

「くだらない」といってすまそうとする傾向には

違和感を覚えます。

おそらく、現在の「右傾化」と呼ばれる現象に

コミットしている人びとの多くは、

左派的言説のある種の「権力性」に対して

ルサンチマンを抱いている。

彼らは、みずからの存在を脅かしつづけてきたサヨクに対して、

「社会的拘束の事実性」を道徳化することによって

復讐を試みているのです。

重要なのは、彼らの「思想」を批判するということではなく

ーもちろんそれも重要な仕事ですがー、

彼らがメビウスの輪の中央線を

なぞることができるように誘導することなのではないか。

まずは、「ロマン主義」的とも映る大時代的な「対象」に、

彼らがコミットしてしまう論理と倫理を

解き明かしていく必要があるはずです。

(P.43)

 

僕は以前から、

「超越がじつは内在だった」

「全体がじつは部分だった」

「普遍がじつは特殊だった」

「内容的に入れ替え不能に見えたものが、

 じつは形式的に入れ替え可能だった」

「カッコよさげが、じつは滑稽だった」

ということがアイロニーだといっています。

じつはユーモアと表裏一体ですね。

(P.57)

 

自分を軽蔑してくる相手方には、

自分も賢くなったうえで

相手方と同じやり方で対抗すればいい。

そこから先は戦略の勝負。

(P.76)

 

昨今の保守がダメなのも、

それが思想でもなんでもなく、

たんなる自己を肯定するための

布教活動にすぎないからです。

(P.86)

 

繰り返すと「内在系」とは、

仕事が認められ、糧に困らず、

家族仲よく暮らせれば、

幸せになれる者のこと。

<社会>内のポジショニングいかんで

自足できる存在です。

「超越系」とは、

仕事が認められ、糧に困らず、

家族仲よく暮らせても、

そうした自分にどんな意味があるのかに

煩悶する者のこと。

<社会>内のポジショニングには

自足できない存在です。

(P.103)

 

「総ゆる範疇は恣意的でありつつも、

 階級的覇権に浸透された協働連関の物象化的結節点だ」、

ならびに

「物象化からの自由が原理的にあり得ない以上、

 現に与えられた物象化的結節点を戦略的に利用せよ」

(P.131)

 

人びとがどうしても惹きつけられてしまう

合理性の彼岸にある価値については、

科学は何も語り得ないということでもあります。

語りうる領域と語りえない領域の境界線を見きわめようとする、

まさしく断念の思想といえるでしょう。

(P.135)

 

透徹した非還元主義は、

方法論的な日和見などではありません。

弁証法的に止揚されてしまいかねないふたつの項を、

おのおの固有なかたちで突き詰め、

その結果、弁証法的な世界像そのものを自壊させるという

方法論だということができるでしょう。

一元論や多元論に与するのは簡単です。

そうした安易な解を拒むことに、

非還元主義の倫理がある。

(P.148~149)

 

自由だと思っていても不自由なのは、なぜか。

(P.158)

 

資本や、資本を持つ勢力が、

文化を選択的に誘導する、という議論を認めない。

時代ごとの権力の配置が、

文化的形象の配置を裏打ちする、という議論も認めない。

(P.160)

 

カタログはマニュアルとは違います。

誰にでもわかるのがマニュアルだとすると、

わかる人にしかわかないのがカタログです。

(P.228)

 

消費社会という意味論をかかげること自体が、

先行するモードへの反省であった。

(P.233)

 

「右」とは「世の摂理は人知を超える」とする発想で、

「左」とは「世の摂理を人知が覆える」とする発想です。

同じ「右」でも、人知を超える全体性を

どう表象するのかという点をめぐって、

「安全な右=保守主義」と

「危険な右=ロマン主義」が分岐するわけです。

日本に存在しうるのは、いまのところは後者だけですね。

(P.238)

 

だから価値自由とは、

価値を自覚しようとする志向であると同時に、

自覚の限界を自覚する志向でもあるのです。

(P.238)

 

このところ解離的な人格が増加しており、

それは複雑化する社会のなかで、

適応していくためのひとつの戦略である。

(P.256)

 

すべての思想や出来事、そして事態が、

反省の対象になっていくのが近代であり、

伝統というものも反省の対象としてしか生き残れない。

(P.266)

 

優秀な人間は壊れている。

壊れた人間が設計する恣意的なアーキテクチャーのなかを、

壊れていない人間が生きる。

それは論理的に無理です。

壊れた人間が設計する恣意的なアーキテクチャーのなかを、

壊れた人間が生きる。

それは現実的に無理です。

結局、壊れていない人間が設計したアーキテクチャーを、

壊れた人間が生きることだけが、可能です。

(P.286~287)

 

乾いた語り口が切り開く思考空間。

日本の人文社会科学系の風土というものは、

その可能性を拒絶しつづけてきたような気がします。

(P.303)

 

近代というものは虚構なしには成立しない。

(P.316)

 

社会学者がこうした思考伝統に敏感なら、

取るべき立場は明白です。

第一に、すべての境界線が恣意的で

相対的なものにすぎないことは自明。

第二に、だから斜にかまえればすむ話じゃなくて、

逆にコミットメントを支える内発性

(内から沸きあがる力やそれのミメーシス)が必要。

第三に、内発性を支えるのに必要な事実性を

創造&護持する再帰的なかまえが必要。

(P.319) 

 

原新人類的な「わかる奴にはわかる」においては、

「わかる奴」とは「同じ穴のなか」にいる奴じゃなく、

絶えずズレることができる

「視界が透明なエリート」のことです。

後期新人類以降の「わかる奴にはわかる」においては、

「わかる奴」とは「同じ穴のなか」にいるパンピーのことです。

(P.382)

 

歴史意識を持つ、

また教養主義的な言語空間のなかに入っていく、

というのは、何も他者に対する優位を確立するためではない。

そうではなくて、自分のポジションを確認し、

強迫的なアイロニーゲームの外に出るためにこそ、

歴史・教養が必要なのだ。

自分を楽にするために、

歴史を知らなくてはならない、ということですね。

(P.402)

 

昔のマッドサイエンティストと違い、

善意のエキスパートが特定の文脈に置かれることで

(本人が思いもよらない)

マッドサイエンティストとして機能するというところに、

現代のマッドサイエンティスト問題がある。

(P.412)

 

何もかもが全体性にアクセスするための

手段にすぎないという感覚です。

手段だから取り替え可能です。

もっとよい手段があればいつでも乗り換える。

その意味で、近代主義も手段。

マルクス主義も手段。

市場も手段。

組織的再配分も手段。

手段の自己目的化はダメ。

原理主義はダメ。

それが僕ら原新人類世代の研究者の共通感覚でした。

(P.418)

 

そうした梯子はずしゲームから距離を置く人たちにしても、

ケータイ・コミュニケーションに見られるように、

他者との接続可能性に神経をとがらせつつ、

日常をこなしている。

自己の位置を確証してくれるような、

他者のレスポンスに一喜一憂しているとすれば、

それはそれでかなり窮屈ですね。

窮屈という言葉がマズければ、

過酷といってもいい。

私の言葉でいえば「つながりの社会性」の過剰な上昇です。

(P.450~451)

 

つまらない仮想敵をつくって、

みずからの「批判性」を担保すべきではありません。

(P.451)

 

「国粋かならずしも愛国の体をなさず」。

これ自体は昔から知られた問題だけど、

今日的なポイントは、

社会システムの複雑化による「不透明性の増大」と、

社会システムの流動化による「生活世界の空洞化」と

「不確実性の増大」が、

「不安」をレバレッジ(梃子作用)にした

思考停止のポピュリズム的動員を、

底なしにすることです。

(P.471) 

 

評価

社会学

学問として主流とは言えないでしょうし、

あらゆるものが内包されるような

非常に幅広い領域を持つ学問です。

 

何でそこにこだわるんだ?という部分は

なきにしもあらずですが、 

そこにこだわらないと見えてこないものもある。

 

私はサバイバル戦略として

多くの人に有効なのではないかと痛感しました。

 

現代社会に不足している思想、

それも深い深い思想がここにはあります。

きっと多くの方の目を開かせてくれると思います。

少なくとも私は目が開きました。 

 

それでは、また…。

 

 

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