おはようございます。
読書がライフワークになっている
医療業界のコンサルタント
ジーネット株式会社の小野勝広です。
内田樹という人物と出会って
私の人生は大いに変わったと思います。
出会いと言っても
書籍を通してではありますが、
もう何十冊と読んできて
毎回とても良い勉強をさせていただいております。
これだけ読んできたら
そろそろ全著書をコンプリートすることが
見えてくるのが普通ですけど
とにかく内田さんは著書が多いです。
読んでも読んでも
まだ未読の本が見つかるという
凄まじい事態になっております。
私の積ん読本棚には
まだ何冊もの著書が待ち受けていますし、
Amazonや本屋さんなどで
まだ未購入の書籍を発見すると即買いしてますので
一向に減りません。
いい意味でこれも運命と考えて
一生付き合っていく所存です。
今回ご紹介する書籍は、
【 街場の平成論 】 です。
本書をピックアップした理由
『 街場の平成論 』
内田 樹 編 晶文社 を読みました。
平成…。
もう随分前のことのように思えますが、
今は令和4年。
たかだか4~5年前の話しなんですよね。
私は昭和44年生まれですけど
社会人になったのが平成4年でした。
私が大人になってからは
ずっと平成という時代を生きてきたと言っても
過言ではありません。
だからと言って
物凄い感慨深いというわけではありませんが、
私の人生を考えてみると
幼少から学生時代を過ごしてきた前半戦の昭和、
そして大人になってからの平成、
今の令和も含めて
3つの時代を振り返るためには
平成という時代をどう捉え、
そこから何を学ぶのかは大きいのだろうなと思います。
敬愛する内田さんが編者となっている
本書、街場の平成論。
この街場シリーズもかなり読んできましたけど
私にとっては読まない理由がありません。
よし、平成を完結させよう。
そんなことを考えながら読み始めたのでした。
目次
まえがき 内田樹
戦後史五段階区分説 内田樹
紆余曲折の日韓平成史 平田オリザ
ポスト・ヒストリーとしての平成時代 白井聡
個人から「群れ」へと進化した日本人 小田嶋隆
生命科学の未来は予測できたか? 仲野徹
平成期の宗教問題 釈徹宗
小さな肯定 鷲田清一
感想
平成の30年間…。
本書を読むと
いろんなことがあったんだなあ…と。
しかもその時代を私自身しっかり生きてきたんだなと
しみじみとするところがありますね。
ベルリンの壁の撤去から始まり
国内ではバブル崩壊から景気低迷と
もうこれだけで「激変」と言わざるを得ないですが、
本書ではこの30年間を
それぞれの著者が多角的に分析しており、
とても興味深い内容でした。
政治、経済はもちろんのこと、
生命科学、宗教、哲学と
この多角的な観点はとても勉強になりました。
自分だけの狭い視野では気づけない
幅広い論点は実に有難い限りです。
ただ、せっかくこれだけの
オピニオンリーダーを集めているのだから、
できることなら内田さんと対談をして欲しかったです。
文章には文章の良さがあるんですけど、
内田さんが編者になるならば
もう1歩発展させて対談したほうが
おそらく相当に深い内容になったんじゃないかと…
その点だけちょっと残念でした。
それでは恒例の私がグッと来た箇所について
ご紹介します。
根拠のない妄想にも現実変成力はある。
そして、ひとたび変成された現実は、
誰がなんと言おうと、
揺るがすことのできぬ歴史的現実となるのである。
例えば、歴史修正主義というのは
無根拠な盲説の集積であるが、
時代の気分によって勢いづくことがある。
そういう時には、特定の集団に憎しみを抱き、
蔑み、排除し、迫害することに
異常な熱意を抱く人たちが湧いて出てくる。
そして、彼らが実際に行ったことによって現に傷つく人がいて、
破壊されるものがある。
それは揺るがすことのできない歴史的現実である。
妄想を侮るべきではない。
時代の気分を軽んじてはいけない。
私はそう思う。
(P.26)
確かにその時代の雰囲気とか、
気分というのは
後々振り返る際にはわかりにくくなってしまいますけど
時代の息吹を知るには大事なのだろうなと思います。
それこそが「リアル」でしょうからね。
「今日よりも明日のほうが良くなる」と
人々がふつうに信じられた経済成長の時代には、
個人の努力とやる気で成り上がっていくことがクールだった。
これは女性も同じことで、
肩パットを入れて歯を食いしばり、
セクハラを乗り越えるテクと胆力があれば
しかし、現代は、グローバル資本主義と
緊縮政治の綻びに疲弊した格差と貧困の時代であり、
「今日より明日のほうが悪くなる」と思う人々が増えている。
もはや個人の努力でがんばれば報われると
天真爛漫に信じられる時代ではない。
経済状況が変われば効果的な闘い方も変わってくるのは当然だ。
(P.96)
Me Too運動について書かれた箇所なのですけど
これなども時代の気分なのでしょうね。
その時代を生きてきた人にしかわかりませんけど、
現代を生きる際の参考にすべきではないか?
そうでないと「今」を正確に理解できないのではないかと
率直に思うのですね。
われわれの未来が本質的に不確定で未知であるならば、
究極的に何が正しく何が間違っているのかをわれわれは知り得ず、
したがって過去も、
有限なる現在のわれわれから裁断することはできない。
このような有限性の自覚の消滅が、
ポスト・ヒストリカルな歴史消費を可能にしたわけである。
(P.115)
過去と現在は当然異なりますし、
この先の未来もまた違うものとなるでしょう。
ただこの繋がりを冷静に把握しないと
道を間違えてしまうのかもしれません。
これが有限性の自覚の消滅ではないでしょうか。
「私はかくかくしかじかの者以外の何者でもあり得ない」ことを受け入れ、
そのような者として何をなすべきかを見出すことー
こうした過程こそ「成熟」にほかならない。
(P.116)
逆に言うと未成熟というのは
自分自身を理解できていないということであり、
自分のない他者とのコミュニケーションは
やはり良いものにはならないですよね…。
成熟した人間関係が「今」求められています。
感情が成熟せずに単純化すること、
その劣化である。
(P.118)
嫌なものは嫌と泣きわめいたり、
クレームを付けるなんていうのは
子どもの論理ですし、
未成熟そのものですよね。
「今」の社会の欠陥は
この頃に根本的な要因がありそうですね。
重要なのは、「心の機微」の表現が稚拙なのではなく、
そもそも「心の機微」が存在しない、
ないものは表現できない、ということだ。
他者の感情の複雑な動きを感知して読み取ることは、
訓練なしにはできないし、
その読解能力を持たない者は、
自らも複雑な感情を持つことはできない。
(P.119~120)
人類の劣化を感じますね。
どこで見間違ってしまったのでしょうか。
弱肉強食は本来人間以外の生物がするものだったのに
人間が弱肉強食化してから
つまり人間が人間を止めてしまってから
心の喪失、感情の単純化に繋がり
攻撃的になってしまったのかもしれません。
「もしわれわれが不死であったなら、
時間の概念をまったく必要としなかった」はずだからである。
「死」とは人間存在の有限性そのものであるが、
その自覚が内省をもたらし、
内省が成熟を可能とする。
そして、すでに見たように、
このような有限性の自覚の欠如が、
ポスト・ヒストリカルな主体を特徴づけ、
全能感に満ちていると同時に空虚な主体を構成する。
今日のインスタントなナショナリズムは、
この空虚を埋めるために呼び出された何かあろう。
(P.127)
これ、かなりガーンと来ました。
自覚、内省、成熟のプロセス。
有限性を拒否したり、目を覆い始めてから
私たちは大人としての振る舞いが
できなくなったのかもしれません。
幼稚化、単純化が
マウントの取り合いの主要因なのでしょう。
自己利益の追求を絶対視する利己主義や、
自分本位主義、自助と自己責任を
振りかざす思想が生まれてくる土壌は、
この金がらみの個人主義が醸成したものではなかったか。
(P.154)
金あまりのバブル、
せっかくのお金を無駄遣いした結果が
令和の時代なのでしょう。
お金の使い途を知らないって恐ろしいことです。
お金は得た後が大事ですね。
「消費者」が「消費者」としての個人を全うするためには、
世界そのものを「市場化」しなくてはならない。
たとえそれが弱肉強食の競争社会であろうと、
血縁や育ちや、しがらみが支配する旧体制よりはフェアーであり、
平等なチャンスもあると言うことである。
(P.155)
グローバリズムを受け入れたのは
私たちが消費者であることに心地良さを感じて、
市場化を良しとしたということでしょうか。
その結果が経済の没落だとすれば
万死に値する判断ミスですね…。
「最小のコストで最大のベネフィット」の要求に応えるために、
コストを最小化し、利益の望めない部門は廃止するか、
縮小する他はなくなる。
しかし、医療、教育、政治は社会共通の制度資本であり、
本来的には金銭合理性とは別の尺度で
その価値を計量されるべきものである。
たとえ不採算部門であっても、
社会のフルメンバーが
恩恵を享受できる機会を無くすわけにはいかない。
そうでなければ、全ての社会のメンターに対して
基本的人権を保障することができない。
(P.158)
率直に言うと
財界に翻弄された自民党が
国家100年の計を見失い
社会を痛めつけた…そう言えますかね?
陛下は、平成という時代の終わりを、
ご自身の生死と切り離す決意を申し出られた。
大変なご英断だと思う。
平成の終わり方は、昭和の終わり方とは違う。
そこには「死」の匂いが伴っていない。
これは、どんなにことほいでも足りない素晴らしい変化だ。
今上天皇は、先帝の死から始まった時代を、
自分の死で終わらせずに、
書類上の手続きとして落着させる
ご決断を自ら申し出られたわけだ。
なんという英明なご決断であることだろうか。
平成はフェイド・アウトする。
平成は死なない。
われわれは、はじめて特定の人間の生死にもたれかかることなく
時代を締めくくる機会に立ち会っている。
平成がどんな時代であったのかはともかく、
平成天皇が名君であられたということは、
この際、この場を借りて大音声で呼ばわっておきたい。
(P.169)
全然自分にはない発想でしたが
言われてみて、確かにスゴイ!と思いました。
上皇様、素晴らしい人ですね。
個人的な考えですけど
天皇陛下は私たちの象徴であるだけでなく、
もう少し政治にも携わっていいんじゃないかと思います。
独裁の防止にもなるでしょうし。
不同意から否認、拒絶、無視、
さらには排撃や抹消まで、
<否定>にもさまざまな水準がある。
とりわけ、反抗や不従順、ぐずりやふてくされというふうに、
若い頃の精神のおさまりのわるさは
否定的な言辞で表されてきた。
エスタブリッシュメントへの抵抗、
カウンターカルチャー(対抗文化)、
ドロップアウト(意図的な落伍)がまぶしく見える。
そんな時代が、昭和40年代より平成まで、
ずっと続いていた。
そしてこれもまたモードという現象と無縁ではなかった、
そういう反抗や対抗のポーズに多くの若者たちが煽られた。
そもそも流行という現象そのものが
過去の絶えざる否定としてある。
そういう否定をこそ否認する<否定>の思考が、
そのまま前者の否定のかたちを知らぬまに
みずからもなぞっているという苛立ちが、
おそらくここにはあったのだろう。
けれどもこうした<大きな否定>は
いまの若い世代にはなじまないのか、
「合わないな」「無理だな」と思えば、
反抗も抗議もせずにその場からすっと消えるか、
あるいは見限ってさっさと場所を変える。
(P.242)
ここで若者論を語るつもりはありませんが、
元若者として思うのは
大人が若者をスポイルしたのだということです。
若者に責任転嫁するのではなく、
大人が責任を取るべき問題だと思います。
<否定>ということから品位が脱落した?
いうまでもなく、<否定>としての暴力行為、殺戮行為は
歴史のなかでも後を絶たない。
が、言説としての<否定>は、
<批判>の行為、それもなにより自己批判の行為として、
磨かれてきた。
「寛容」というのがそのもっとも適切な例である。
否認すべき論敵をも、
論争的対決の相て(パートナー)として
その権利をともに守ること。
「言論の自由」(a universe of discourse)は
そういうものとして開かれたはずである。
人類はそれを「人間の尊厳」の一つに数えてきた。
「生きる」ということが
「みずからの限界を感じとること、
われわれに制約を与えるものを考慮に入れること」、
いいかえるとこの世には、
「自分以外の審判が存在するということ」(オルテガ)が
「あたりまえ」として共有されているはずであった。
だが、人々の言動から、
ひょっとしたら人びとの日々のふるまいからも、
この<制限>が外れてきた。
私的欲望の無制限な膨張をかろうじて緊めてきた縄が
一挙に解かれたかのごとくに。
こうした「あたりまえ」の瓦解は、
いよいよ社会の底が抜けだしたと言い換えることもできよう。
(P.248~249)
これが殺伐とした社会を作り、
分断に繋がり、究極的には戦争となる理由でしょうか。
人類はあまりにも愚かと言わざるを得ません。
その出発点は私利私欲であり、
他者を許せなくなる自分の心なのかもしれませんね。
評価
おススメ度は ★★★☆☆ といたします。
結構、勉強になったくせに
厳しい評価にしたのは
よし、内田さんの本を読もうと決めて
本書を手に取ったにも関わらず、
まえがきと1章しか内田さんは執筆しておらず
きちんと調べないで読み始めた自分が悪いのですが
何となくガッカリ感が大きくて…。
あ、でも期待外れだったわけではなく、
平成という時代を自分のなかで完結して
これからの令和に挑んでいこうと思える
良書であるのは間違いありません。
勝手な私のミスでございます。
それでは、また…。
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