ある読書好き医療コンサルタントの「書評」ブログ!

年間60~70冊ほど読んでます。原則毎週日曜日に更新しますが、稀にプラスαもあります。本好きの方集まれ!

断片的なものの社会学

 

おはようございます。

 

読書がライフワークになっている

医療業界のコンサルタント

ジーネット株式会社の小野勝広です。

 

時代の変化は加速度を増すばかりですし、

少し前の常識は

あっという間に非常識に入れ替わったりします。

 

既得権を持つ強欲ジジイ達は

それに気づかずに

自分たちの天下が永遠に続くかのように思ってるでしょうが、

テクノロジーが容赦なく排除することでしょう。

 

せめて時代は変わることを頭に叩き込んで

相応しいポジションに自ら移行していかないと

ふと気づいたら

周囲には誰もいなかったとなるかもしれません。

 

でも、これは別に現代社会だからではなく、

いつの世も似たようなものだと思うんです。

 

そして大人の勉強って

こういうことではないでしょうか?

 

別に試験があるわけでもありませんし、

現状維持で良ければ

大した勉強をする必要もありません。

 

ところが勉強している人としていない人では

年々差が広がるだけなんですよね。

 

今を生きる私たちが

最も恐れなければならないのは

時代に付いていけなくなること、

そして社会が見えなくなることではないでしょうか?

 

今回ご紹介する書籍は、

【 断片的なものの社会学 です。

 

 

本書をピックアップした理由

『 断片的なものの社会学

岸 政彦 朝日出版社 を読みました。

 

どなたかにおススメされたのか、

WEB上で見掛けたのか、

ちょっと忘れてしまったのですが、

覚えているのは本書の存在を知った2分後には

ポチっとしていたことです。

 

私にとっては社会学と言えば宮台真司さんです。

今までも継続的に読んでいます。

 

ka162701.hatenablog.com

 

ところが宮台さんの著書は

私には若干難解であり

読むのに集中力と体力が必要なのですね。

 

本書を即買いしたのは

帯にて紹介されていた言葉です。

 

ひさしぶりに、

読み終わるのが惜しいような本に出会った

 

この上野千鶴子さんの言葉…

スゴいなあと思いました。

 

社会全体の未来を見据えた「ことば」

 

これは高橋源一郎さんの言葉…

核心を突くような鋭さです。

 

この本は何も教えてくれない。

ただ深く豊かに惑うだけだ。

そしてずっと、

黙ってそばにいてくれる。

小石や犬のように。

私はこの本を必要としている。

 

こちらは星野智幸さんの言葉…

しみじみとしますね。

 

著者である岸政彦さんは

残念ながら存じ上げませんでしたが、

少なくとも宮台さんとは異なる社会学者であるでしょうし、

私は社会学に興味がありますので

これは買いだ!と直感したんです。

 

かなり期待をしながら

読み始めたのでした。

 

目次

・イントロダクション──分析されざるものたち

・人生は、断片的なものが集まってできている

・誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない

土偶と植木鉢

・物語の外から

・路上のカーネギーホール

・出ていくことと帰ること

・笑いと自由

・手のひらのスイッチ

・他人の手

・ユッカに流れる時間

・夜行バスの電話

・普通であることへの意志

・祝祭とためらい

・自分を差し出す

・海の向こうから

・時計を捨て、犬と約束する

・物語の欠片

・あとがき

 

感想

いや~、期待を裏切られました。

しかも大幅に…です。

 

でも心地良いです。

いい意味での裏切りだったからです。

 

これも社会学か?と

最初疑問に思いながら

段々とこれでいいんだ、

これも必要だ、

この視点こそが社会学だと

思いが肯定的に変わっていきました。

 

人とは何か?

社会の仕組みはどうなっているのか?

 

そんな学術的に研究をするばかりじゃ

どうしても見えてこないものがありますよね。

 

おそらく本書はその洩れた部分を

しっかり見つめているように感じました。

 

平易な文体で読みやすいし、

心のひだにもしっかり寄り添っています。

 

自分自身の考えるきっかけとしても、

人生を深く考えるにしても

とても良い内容と出会えました。

 

それでは恒例の私がグッときた箇所をご紹介します。

 

どんな人でも

いろいろな「語り」をその内側に持っていて、

その平凡さや普通さ、

その「何事もなさ」に触れるだけで、

胸をかしむられるような気持ちになる。

梅田の繁華街ですれちがう厖大な数の人びとが、

それぞれに「何ごともない、普通の」物語を生きている。

そうした、普段は他の人びとの目からは隠された人生の物語が、

聞き取りの現場のなかで姿を現す。

そして、その聞き取りの現場ですらも、

思いもかけない物語がつねに新しく生まれているのである。

だが、実はこれらの物語は、

別に隠されてはいないのではないか、と思う。

それはいつも私たちの目の前にあって、

いつでもそれに触れることができる。

私たちが目にしながら、

気づいていないことはたくさんある。

(P.25~26)

 

この詩的な文章が段々と壺にハマってきます。

社会を理解するためには

私たち1人1人の心の中に

グイグイと踏み込まねばならないのでしょうね。

 

もともと私たちには何も与えられていないし、

私たちは何も失っていない。

そして、このようなことは、

世界中に存在しているのである。

あらかじめ与えられず、

したがって失われもしないために、

私たちの目の前に絶対に現れないようなものが、

世界中に存在しているのだ。

何も起きていない現実が世界中で起きているのである。

(P.31)

 

物質に占拠されている私たちの生活。

目に見えないものが見えなくなっているのでしょう。

表層的と言えば、非常に表層的ですよね。

 

この「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない」語りは、

美しいのだと思う。

徹底的に世俗的で、徹底的に孤独で、

徹底的に膨大なこのすばらしい語りたちの美しさは、

一つひとつの語りが無意味であることによって

可能になっているのである。

(P.38~39)

 

現代人って

言語化できないものや

金銭で計れないものに弱いですね。

そこの価値が全然見えていません。

 

居場所、というものについては、

さんざん語り尽くされ、

言い古されているが、

それはやはり何度でも立ち戻って

考えてしまうようなものである。

居場所が問題になるときは、

かならずそれが失われたか、

手に入れられないかのどちらかのときで、

だから居場所はつねに必ず、

否定的なかたちでしか存在しない。

しかるべき居場所にいるときには、

居場所という問題は思い浮かべられさえしない。

居場所が問題となるときは、

必ず、それが「ない」ときに限られる。

(P.80~81)

 

ここまで居場所について考えたことはなかったな。

それは私に居場所があるという証拠なのかもしれない。

もっと幸せに感じなければなりませんね。

 

帰ることができるひとは、幸せだ。

世の中には、しばらくは帰ることができないひともいるし、

二度と帰れないひとも多い。

また、そもそも、帰るところがどこにもないひともいる。

(P.86)

 

しみじみとしますね。

でもこういう現実って身の回りにないと

私たちは思考しないモノですね…。

 

私たちは私たちの人生に縛りつけられている。

私たちは自分の人生をイチから選ぶことができない。

なにかとても理不尽ないきさつによって、

ある特定の時代の特定の場所に生まれ、

さまざまな「不充分さ」をかかえた

この私というものに閉じ込められて、

一生を生きるしかない。

私たちが生きるしかないこの人生というものは、

しばしばとても辛いものである。

(P.97~98)

 

人生の裏側というか

嫌なところ、汚いところ、

私たちは目を背けがちですが、

それが「超」現実になってしまうと

相当に苦しい目に合うのでしょう。

 

哲学的な思考を癖づけていないと

かなり厳しい状況に陥りそうです。

 

くり返すが、

他人との接触は基本的に苦痛だ。

しかしたまにそれが、

とても心地よいものになることもあり、

そのことをほんとうに不思議に思う。

(P.130)

 

人間ってひと筋縄では行かない。

せめてそれくらいは認識しておかないといけませんね。

 

自分のなかには何が入っているのだろう、

と思ってのぞきこんでみても、

自分のなかには何も、

たいしたものは入っていない。

ただ、そこには、

いままでの人生でかきあつめてきた断片的ながらくたが、

それぞれつながりも必然性も、

あるいは意味さえもなく、

静かに転がっているだけだ。

私自身の性格や他人との接し方も、

私のなかにもとからあったものではない。

それは身の回りのいろいろな人びとの癖や

喋り方を模倣して組み合わせたものにすぎない。

(中略)

誰でも同じだと思うが、

私の人格もまた、

他人のいくつかの人格の摸倣から合成されたものなのである。

ここには、「かけがえのないもの」や、

「世界でたったひとつのもの」など、

どこにもない。

ただ、ほんとうに小さな欠片のような断片的なものたちが、

ただ脈絡もなく置いてあるだけなのである。

(中略)

何も特別な価値のない自分というものと、

ずっと付き合って生きていかなければならないのである。

(P.193~194)

 

生きるってこういうこと。

でも贅沢な暮らしをしていると意識しない。

意識しなければないものと一緒。

しかし意識しないと見えないものがありますね。

 

何ものかになろうとすることは、

確かに簡単なことではない。

その可能性は限りなくゼロに近い。

しかし、どんなにそれがごくわずかでも、

そもそも何ものかになろうとしなければ、

何ものかになることはできない。

何ものかになれるかどうかは、

なろうとしたときにはまだ決定されていない。

なろうとするまえに、

なれるかどうかを知ることはできない。

それは賭けである。

(P.197)

 

何ものでもない自分を楽しめるといいのですが、

何ものでもない自分って不安なんですよね。

だからせめて何ものかになろうとするけど

どの方向に進んでも茨の道でしょう。

 

私たちの人生は、

何度も書いているように、

何にもなれずにただ時間だけが過ぎていくような、

そういう人生である。

私たちのほとんどは、

裏切られた人生を生きている。

私たちの自己というものは、

その大半が、「こんなはずじゃなかった」自己である。

(P.197~198)

 

死ぬこと以外はかすり傷。

生きているだけで丸儲け。

そんな発想が必要かもしれません。

 

いつも私の頭の片隅にあるのは、

私たちの無意味な人生が、

自分にはまったく知りえないどこか遠い、

高いところで、

誰かにとって意味があるのかもしれない、ということだ。

(P.200)

 

人生に意味があるのか?

意味が必要なのか?

 

宗教や哲学がないと

答えには近づいていかないのかもしれません。

 

私たちの人生には、

欠けているものがたくさんある。

私たちは、たいした才能もなく、

金持ちでもなく、

完全な肉体でもない。

このしょうもない自分というものと、

死ぬまで付き合っていかなくてはならない。

私たちは、自分たちのこの境遇を、

なにかの罰だと、誰かのせいだと、

うっかり思ってしまうことがある。

しかし言うまでもなく、

自分がこの自分に生まれてしまったということは、

何の罰でもなく、誰のせいでもない。

それはただ無意味な偶然である。

そして私たちは、

その無意味な偶然で生まれついてしまった

自分でいるままで、死んでいくほかない。

他の人生を選ぶことはできないのだ。

ここにはいかなる意味もない。

(P.221~222)

 

自分との向き合い方。

現代人は下手になっているかもしれませんね。

 

折り合いを付けて生きていかないと

辛いことが多くなってしまいそうですね。

 

評価

おススメ度は ★★★★★ と満点といたします。

 

考えてみれば

社会学と言っても

ひとつの形に限定する必要はありませんし、

むしろ社会のなかは驚くほどに多様化しているのだから

様々なアプローチがあるべきとも言えそうです。

 

宮台さんの本ばかり読んでいたので

本書は衝撃というか、

とてもいい意味での学びとなりました。

 

心を揺すぶられるところも多かったですし、

自分の知らない世界や

知っているのに知らないふりをしていた世界、

あまりにも意識が薄かった世界など

目を開かせられる素晴らしい内容でした。

 

絶賛おススメいたします。

 

それでは、また…。

 

 

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