ある読書好き医療コンサルタントの「書評」ブログ!

年間60冊以上の本を通じて、人生や社会の構造を読み解いています。 読書感想にとどまらず、キャリアや人生に彩りを与える言葉を綴っています。読書好きな方と繫がりたい!

ウィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』を読む

 

おはようございます。

 

読書がライフワークになっている

医療業界のコンサルタント

ジーネット株式会社の小野勝広です。

 

最近思うのですが

世の中にはわからないことが多いじゃないですか?

 

それが無知の知というものだと思っていますが

意外と自分は何でもわかっていると思っている人もいて

もちろんそれはその人の不明以外の何者でもないのですが、

わからないものを遠ざけてしまえば

わからないものを学ぶ気がなければ

要はわかっていることだけの世界で生きてしまえば

わからないものはなくなるわけですよね。

 

でもそれがその人にとって

プラスになるとは到底思えず

ある種の「老害」と言っても過言ではないでしょう。

 

ただ年を取ってくると

わからないことを学ぶよりも

わかっている世界で生きようとする人が

なぜだか多いような気がしています。

 

自分と同年代や、年上を見ると

わかってることしか語らない人とか

わからないこともわかったフリをして

わかろうとすらしない人は思いの外、多いです。

 

見ていて正直好感が持てないどころか

嫌悪感ばかり感じますので

自分はそうならないように気を付けなきゃと考えてます。

 

今回ご紹介する書籍は、

ウィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』を読む 】 です。

 

 

本書をピックアップした理由

ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』を読む 』

野矢 茂樹 ちくま学芸文庫 を読みました。

 

わからないことを知る。

大事なことだと思うんですよね。

 

私が哲学本を読む理由は

ハッキリ言うとそれだけです。

わからないことを知る。

 

ka162701.hatenablog.com

 

わからないものは

わからないのですから

わかるまで

わからないままで保留しておくべきですけど

わからないから

わかろうとしないというのは

大人としてどうなんだ?という思いもあります。

 

わからないけれど

わかろうとはしてみる。

わからないということがわかっただけでもいい。

 

自分にはわからないものが

この世にはた~くさんあって

それをわかっているというのも大事ですし、

今はわからないけれど

いつかわかるかもしれないから

少しずつ学んでおくというのも必要です。

 

え~、こいつは何を言ってるんだ?と

まるで禅問答のようなことを述べていますが

これが私の哲学に対するスタンスです。

 

ですからわかる、わからないではなく、

何となく予感がするから

哲学は学んでおく。

 

理解力?

まあそれは脇に置いておいて

とにかく哲学本は時々読む。

 

こんな私みたいな人間がいても

いいんじゃないでしょうかね~??

 

目次

はじめに

1 語りえぬものについては、沈黙せねばならない

2 現実から可能性へ

3 対象に至る方法

4 これでラッセルのパラドクスは解決する

5 論理が姿を現す

6 単純と複合

7 要素命題の相互独立性

8 論理はア・プリオリである

9 命題の構成可能性と無限

10 独我論

11 自我は対象ではない

12 必然性のありか

13 死について、幸福について

14 『論考』の向こう

あとがき

 

感想

今、思えば

どうして本書を買ったのか?

よく覚えていません。

 

ウィトゲンシュタインという

名前くらいは知っているけれど

本当に名前だけというレベルだし、

論理哲学論考』という書籍も

どこかで何となく聞いたことはあるけれどという

お恥ずかしいレベルでございます。

 

それなのに、なぜか本書を購入し、

なぜか読み始めるというのは

それこそ奇跡のようなものであり、

これもご縁なのかなと思います。

 

本書はウィトゲンシュタインの代表的な著作である

論理哲学論考』を元東京大学の教授である

野矢茂樹氏が解説するというスタンスなのですが、

他の哲学本と比較すると

多少なりともわかりやすかった気はしますが

これはあくまでも「気」だけであり、

どこまでわかったの?と問われれば

非常に心許ない事態であるのは間違いありません。

 

ウィトゲンシュタインの言葉を

野矢茂樹さんがかみ砕いて

わかりやすく事例などを出して

丁寧に説明はしてくれているのですが、

それがまた段々とわかりにくくなってきて、

それこそ解説の解説が必要じゃないかという感じです。

 

ただ、何でしょう。

本書には勢いというか、

スピード感とか、迫力のようなものが感じられて

意味もわからずにワクワクしたのが面白いところです。

 

論理哲学論考』がスゴイのか

野矢茂樹さんの文章力なのかはわかりませんが

「論理」「哲学」「論考」のいずれかに

ピンと来るような方は

本書からは

何か大事なものが学べるのではないかと思いました。

 

それでは恒例の私がグッと来た箇所をご紹介いたします。

 

われわれは何かを語るとき、

論理に従う。

論理は有意味に語るための条件である。

それゆえ、論理それ自体について語ろうとすることには

根本的におかしなところがある。

つまり、論理は「語りえない」のである。

論理は、われわれが論理に従いつつ

他の何ごとかを語るとき、

そこにおいて「示される」ものでしかない。

もうひとつ、論理と並ぶ、

あるいは論理以上に重要視されるもの、

それは倫理である。

倫理もまた、語りえず示されるしかない。

そして語りえぬとして却下されるのではなく、

語りえぬがゆえに語りうるものよりも

いっそう重要とされる。

そうして、善、悪、幸福、価値、生の意義。

こうした話題がそっくり語りえぬ

沈黙の内に位置付けられる。

ウィトゲンシュタインのその手つきは、

あたかも「語る」ことによって

それらを卑しめてしまわないように

するかのごとくに見える。

(P.26~27)

 

私たちが日常的に使う言葉に

論理とか、倫理とか

意識的であるわけではありませんけれど

それを意識することによってしか

「論考」することはできないわけで

本書が最初に斬り込んでいくのはここなのか…と

少しワクワクするとともに

自分の「語る」についてもよく考察したいと思った次第です。

 

このように「言語」を多少広い意味で、

音声言語や文字言語に限定されない、

像一般と重なるような意味で捉えてはじめて、

どれほどのことを語りうるのかという言語の限界とが、

厳格に一致するのである。

簡単に振り返っていこう。

本書においてわれわれは、

現実性から可能性への道筋を、

すなわち、成立していることの

総体であるこの世界から出発し、

成立しうることの総体である論理空間へと至る道筋を、

おおまかにではあるが辿った。

もっとも重要な点は、

そこに現実の像たる言語が介在するということである。

言語がなければ、

われわれは現実性から可能性へと

ジャンプすることはできない。

(P.48)

 

言語の限界なんて

普通は考えたことがないじゃないですか?

 

でも日常的に伝わらないということはよくあり、

それは言語を

言語一種に限定し過ぎているからかもしれない。

そんなことを考えました。

 

たとえば、「曖昧」という概念は

曖昧さの基準が明確ではないため、

それ自身曖昧な概念であると考えられる。

だとすれば、

「『曖昧』という概念は曖昧である」と言える。

すなわり、自分自身に述語づけられる事例となっている。

他方、「厳密」という概念も

その厳密さの基準が明確ではないとすれば、

「『厳密』という概念は厳密ではない」と言え、

これは自分自身に述語づけられない事例となる。

そのように見れば、

圧倒的に多数の肯定形の述語が

自分自身に述語づけられない述語である。

(P.83)

 

何を言ってるのでしょうね~。

何が言いたいのでしょうね~。

これが論理学ってものでしょうか。

でもなぜか私の心には訴えかけてくるのですよね。

 

対象として存在していないものに名はつかない。

(P.159)

 

さりげないひと言ですが

当たり前っちゃ当たり前ですけど

こういうところにも意識を向けるのが

哲学なのだろうなと思いました。

 

そこにおいて、

語りえぬものの語りえなさが明らかにされていく。

そして最後は、

「語りえぬものについては、

 沈黙せねばならない」と閉じられる。

『論考』はこうして、

いくつかのものを論理空間の中には

収まりえない語りえぬものとして取り出す。

しかし、無制限の論理空間に収まらないのであれば、

それは制限された論理空間にも収まりはしない。

『論考』が語りえぬとしたものは、

『論考』後にも相変わらず語りえないままなのである。

(P.164)

 

現代社会は

語りえないものを平気で語り

ドツボにハマることが多いだけに

論考的な考えも広まったほうが良さそうですね。

 

『論考』の目標を思い出そう。

思考の限界を捉えること。

しかし、思考の限界を思考することはできない。

思考の限界に立つことは

思考しえぬ領域をも考えることを要求するが、

それは不可能である。

それゆえわれわれはあくまでも思考可能性の内側に立ち、

そこから思考の限界を画定しなければならない。

(P.170)

 

限界はあってないようなもの。

我々の意識の中にしかないのか?

そもそも限界を捉えることは不可能なのか?

 

論理は世界を満たす。

世界の限界は論理の限界でもある。

それゆえわれわれは、論理の内側にいて、

「世界にはこれらは存在するが、

 あれは存在しない」と語ることはできない。

なるほど、一見すると、

「あれは存在しない」と言うことで

いくつかの可能性が排除されるようにも思われる。

しかし、このような可能性の排除は

世界の事実ではありえない。

もし事実だとすれば、

論理は世界の限界を超えていかなければならない。

そのとき論理は

世界の限界を外側からも眺めうることになる。

思考しえぬことを

われわれは思考することはできない。

それゆえ、思考しえぬことを

われわれは語ることもできない。

(P.217~218

 

個人的には本書のハイライトだと思いました。

論理、そして思考の限界。

これを知っておかないと人は勘違いしそうです。

 

「死は人生のできごとではない」、

これがウィトゲンシュタインの死についての

基本的主張である。

(P.294)

 

これも限界の設定でしょうか?

 

身体的な死だけではなく、

論理、言語、思考としての死。

死はあるのか、ないのか。

なかなかに難しい問題です。

 

評価

おススメ度は ★★★★☆ といたします。

 

私の理解力では

本書を評価するなんて

大変におこがましいことではありますが

何か本書にはグルーブ感とでも言うのでしょうか。

 

ふむふむ、次は?という

先を楽しみにさせる何かがあるのです。

 

論理なのか?

哲学なのか?

論考なのか?

 

ウィトゲンシュタインなのか?

野矢茂樹なのか?

 

私にはとても答えは出せませんけれど

本書には何かがあると

エモーショナルには訴えることができそうです。

 

哲学慣れしている

頭の良い人が本書をどう評価するのか。

そこも興味のあるところですね。

 

それでは、また…。

 

 

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