おはようございます。
読書がライフワークになっている
医療業界のコンサルタント
ジーネット株式会社の小野勝広です。
皆さんは本の情報をどこで手に入れてますか?
私は信頼する人におススメされたら
まず読みます。
それはリアルな知人、友人でもそうですし
内田樹さんのような
敬愛する方の著書で紹介されていると
ついポチっと購入してしまいます。
ただ最近はスレッズで情報収集することが増えていて
これが意外と当たるんです。
スレッズのアルゴリズムの問題なのか
好みの本がやたらと出てきて
思わず買ってしまうんですよね。
おかげ様で私の積ん読本棚は
もう入りきれないくらいとなっています。
いつかすべて読み終える時が来るんだろうか?(笑)
減るより増えるほうが多い昨今、
さすがに読み切れるのか若干不安になってきました。
今回ご紹介する書籍は、
【 暇と退屈の倫理学 】 です。
本書をピックアップした理由
『 暇と退屈の倫理学 』
國分 功一郎 新潮文庫 を読みました。
冒頭申し上げたように
本書はスレッズで紹介している方がおり
つい興味を持って購入しました。
國分功一郎さんの著書は初めてですし
結構、難解なのかなとおそるおそる読み始めたでした。
目次
序章 「好きなこと」とは何か?
第1章 暇と退屈の原理論
ーウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?
第2章 暇と退屈の系譜学
ー人間はいつから退屈しているのか?
第3章 暇と退屈の経済史
ーなぜ“ひまじん”が尊敬されてきたのか?
第4章 暇と退屈の疎外論
ー贅沢とは何か?
第5章 暇と退屈の哲学
ーそもそも退屈とは何か?
第6章 暇と退屈の人間学
ートカゲの世界をのぞくことは可能か?
第7章 暇と退屈の倫理学
ー決断することは人間の証しか?
結論
付録 傷と運命ー『暇と退屈の倫理学』増補新版によせて
感想
えーとですね…
控えめに言っても
大変に面白かったですし
非常に勉強になりました。
國分功一郎さんの
他の著書も読みたくなりましたし、
確実に購入すると思います。
何より「暇」と「退屈」が
こんなにも哲学的であり
私たちの倫理観に左右されるのかという驚き。
述べていることに考えさせられる点が多く、
また本質を深く追求する姿勢や
理論立ても実にわかりやすくて
おそらく自分の理解度も高いと思うので
ここからいかにして自分でプラスにしていくか。
それが問われるのだろうなと
自分の人生をより良いものとするのは
自分次第なんだなとしみじみ感じさせられました。
本書においては
私がグダグダと余計なことを述べるよりも
いつもの私がグッときた箇所をご紹介するのが
最善と思います。
哲学とは、問題を発見し、
それに対応するための概念を作り出す営みである。
過去の哲学者たちも、
各々が各々の問題を発見し、
それに対応するべく
新しい概念を創り出してきた。
(P.4)
なるほど。
なぜ私がわからないなりに
哲学を学ぶのかの根本的な要因がわかりました。
私がしているコンサルタントとは
問題を発見し、解決するまで寄り添う仕事です。
だから哲学が当然の如く必要なのですね。
哲学を持たないコンサルタントは
かなり有害化するリスクがあるように思います。
近代はさまざまな価値観を相対化してきた。
これまで信じられてきたこの価値もあの価値も、
どれも実は根拠薄弱であって
いくらでも疑い得る、と。
その果てにどうなったか?
近代はこれまで信じられてきた価値に代わって、
「生命ほど尊いものはない」という
原理しか提出できなかった。
この原理は正しい。
しかし、それはあまりに「正しい」が故に
だれも反論できない。
そのような原理にすぎない。
それは人を奮い立たせない。
人を突き動かさない。
そのため、国家や民族といった
「伝統的」な価値への回帰が
魅力をもつようになってしまった。
だが、それだけではない。
人は自分を奮い立たせるもの、
自分を突き動かしてくれる力を欲する。
なのに、世間で通用している原理にはそんな力はない。
だから突き動かされている人間を
うらやましく思うようになる。
たとえば、大義のために
死ぬことを望む過激派や狂信者たち。
人々は彼らを、恐ろしくも
うらやましいと思うようになっている。
(P.34~35)
人間の難しさ、複雑さでしょうか。
ひと筋縄では行かないし、
でもあまりにも単純な存在だったりもします。
集団となりパワーを持つと
素晴らしいことを成し遂げる一方で
とんでもない悪行もできてしまいますね。
人は、自分が<欲望の対象>を
<欲望の原因>と取り違えているという
事実に思い至りたくない。
そのために熱中できる騒ぎをもとめる。
(P.48)
確かにそういう一面はありますね。
人は本当の意味で賢くはなれないのかもしれません。
賢くないから人間であると…。
退屈しているとき、
人は「楽しくない」と思っている。
だから退屈の反対は楽しさだと思っている。
しかし違うのだ。
退屈している人間がもとめているのは
楽しいことではなくて、興奮できることなのである。
興奮できればいい。
だから今日を昨日から区別してくれる事件の内容は、
不幸であっても構わないのである。
(P.66)
人間って面倒くさい存在ですね。
でもそれを前提にして
自分を高めて他者と共生していかねばならない。
わかった気にならずに
わからないことを当然と思いながら
コミュニケートするしかありませんね。
定住民は物理的な空間を移動しない。
だから自分たちの心理的な空間を拡大し、複雑化し、
そのなかを「移動」することで、
もてる能力を適度に働かせる。
したがって次のように述べることができるだろう。
「退屈を回避する場面を用意することは。
定住生活を維持する重要な条件であるとともに、
それはまた、その後の人類史の異質な展開をもたらす
原動力として働いてきたのである」。
いわゆる「文明」の発生である。
(P.105)
この前後の人間がなぜ定住したのか?
その結果どうなったのか?
ここは非常に読みがいがありましたし、
現代にも通じる思想の原点があるように感じました。
以前は欲求が供給や生産に先行していた。
欲求が供給や生産を引き起こし、
かつ決定していた。
今日では生産と供給が欲求に先行し、
これを強制している。
つまり、欲求のために生産されるのではなくて、
世界市場のために生産されるのである。
(P.149)
これが19世紀から言われていて
現代でも変わらないでしょうか。
企業にいいようにやられるわけだ。
拝金主義はここから生まれたのかもしれない。
だが非正規雇用は、
単にだれかがズルをしているから
生み出されたものではない。
現在の消費=生産スタイルが
これを要請してしまっているのだ。
つまり、モデルチェンジが激しいから
機械に設備投資できず、
したがって機械にやらせればいいような仕事を
人間にやらせなければならない。
売れるか売れないかが分からない賭けを
短期間で何度も強いられるから、
安定して労働者を確保していくことができない。
したがって、労働者を企業に都合のよいように
鍛え上げていくというプロセスすらもはや成立しない。
(P.159)
このあたりの経済から見る暇と退屈も
実に面白かったですね。
私たちが今、当たり前だと思っていることは
全然当たり前ではなくて
表層的な対処では全く解決せずに
根本的な解決は
ここにあるんだなと勉強になりました。
それは終わりなき消費のゲームを続けているのが
消費者自身である。
たしかに、ある意味で消費者は消費を強制されている。
広告で煽られ、
消費のゲームに参入することを強いられている。
しかし、それは資本家が金にものを言わせて
労働者に劣悪な条件で
働かせる場合の強制とは異なっている。
消費者は自分で自分たちを追い詰める
サイクルを必死で回し続けている。
人間がだれかに蝕まれるのではなく、
人間が自分で自分を蝕むのが
消費社会における疎外であるのだ。
(P.191)
資本家のための資本主義社会。
資本家や経営者が得をするだけの経済。
突き詰めればここですよ。
企業の論理は人間を苦しめていますね。
経済成長を果たした国の国民から見たら
ありがた迷惑な気がします。
プロセス段階ならまだしもですが。
所有がなければ人を隷属させたり、
抑圧したりはできない。
自分はこれを所有しているから、
俺の命令に従うなら
この所有物を分けてやろうという
ロジックが働かない限り、
人を自分に従わせることはできないからだ。
(P.203)
本当に世の中を変えたければ
デモを起こしたり
政治に期待をするのではなく
私たちが消費をしなくなればいいのでしょう。
最低限の生活さえできるならば
困るのは企業です。
資本家や経営者です。
何も買わない。
まあできるとも思えませんけど。
<労働>とは、
人間の肉体によって
消費されるものに関わる営みである。
たとえば食料や衣料品の生産などがそれに当たる。
それはかつて奴隷によって担われていた。
だから<労働>は忌み嫌うべき行為であった。
それに対し、
<仕事>は世界に存在し続けていくものの創造であり、
たとえば芸術がその典型である。
<労働>の対象は消費されるが、
<仕事>の対象は存続する。
ゆえに<仕事>は<労働>に比べて
高い地位を与えられてきた。
肯定的に捉えられてきたのである。
(P.216)
ライスワーク、ライクワーク、ライフワークと同じ。
労働にしても仕事にしても
そんなに浅くないと思いますし、
「働く」という観点も必要ですね。
昨今は働かないことが美徳という
個人主義がまかり通るようになり
益々混迷を深めているように感じます。
どこを探しても退屈なものはない。
にもかかわらず退屈してしまう。
自分自身が退屈な人間であったがために、
自分自身を退屈させてしまっていたのだろうか?
そうではないだろう。
自分で自分を退屈させるためには、
自分の殻に閉じこもって、
自分で自分のことを
あれこれと思い煩っているのでなければならない。
(P.254)
こう考えると退屈って何でしょうね。
退屈にしているのは自分だ。
そうとも言えるでしょうか。
本当は退屈している暇なんてないのに。
決断した人間はどうなるか?
彼はある内容を選び取り、決断した。
決断したのだから、
その決断した内容をただただ遂行していかねばならない。
決断は決断された内容への従属をもとめる。
決断を下した者は、
決断の内容に何としてでも従わねばならない。
そうでなければ決断ではない。
簡単に破棄できるなら決断とは言えない。
したがって、先に述べた通り、
決断した者は決断された内容の奴隷になる。
(P.348~349)
面白い物の見方ですね。
でもちょっと皮肉に過ぎるし
ネガティブな点にフォーカスし過ぎかとも思いました。
でも現実的には
気づかぬうちに奴隷のように生きている人は多く
決断のマイナスの効用とは
こういうことなのかという気づきとなりました。
本書が何度も強調してきたように、
我々は何もすることがない状態に耐えられない。
つまり、暇になると苦しくなる。
その苦しみは実に強力なものであって、
身体的な苦しさよりも苦しい。
人は、何もすることがない状態、
何をしてよいのか分からない状態の苦しさに
陥るのを避けるためであれば、
よろこんで苦境に身を置く。
(P.493)
なんだかなあ…と思いながらも
そうなんだよなあ…と思いました。
これは当人の生き方、考え方であり、
働き方、やり方、向き合い方、付き合い方など
もう自分次第なのでしょうね。
ポイントはただひとつ。
「主導権」を持っているか?
現代社会では持っていない人が多いだけに
苦しんでいる人が多いのですよね…。
評価
おススメ度は ★★★★★ といたします。
実に面白かったです。
こんなに読みやすい哲学本は
なかなかないんじゃないでしょうか。
暇であること。
退屈であること。
暇でないこと。
退屈ではないこと。
暇で退屈であること。
暇だけど退屈ではないこと。
暇で退屈ではないこと。
暇だけど退屈であること。
それぞれが生き方や人生に関わってきますので
自分を振り返る意味でも
本書を読んでみるといいかもしれません。
それでは、また…。
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