おはようございます。
読書がライフワークになっている
医療業界のコンサルタント
ジーネット株式会社の小野勝広です。
私は「人を学ぶ」
「社会の仕組み、構図、構造を学ぶ」ことを
目的として読書をしています。
と言うようになったのは
10年くらい前からでしょうか。
子供の頃から読書は好きだったのですが
中学、高校は野球部に入り
完全に野球小僧になっていました。
大学も野球推薦で入ったくらいでしたけど
さすがに周囲のメンバーのレベルの高さに圧倒され
オレは野球の道では先がない。
そんなことを考えて
読書に勤しむようになったのですね。
20代、30代は貪るように
様々なジャンルの本を読み漁りました。
良くも悪くも雑食で
少しでも面白そうと思ったら
取りあえず読んでみようというスタンスです。
これは原則として今も変わらないのですが
ひとつだけ変わったのは
読書に明確な目的を持つことによって
セレクトする本のレベルが上がったことです。
今までの積み重ねの成果とも言えるかもしれませんが
最近は読む本の当たる確率が格段に上がっており
読書がさらに楽しくなっています。
たぶんですけど
冒頭に申し上げた
「人を学ぶ」
「社会の仕組み、構図、構造を学ぶ」
この方針が奏功しているんじゃないかと思ってます。
今回ご紹介する書籍は、
【 人間の条件 】 です。

本書をピックアップした理由
『 人間の条件 』
ハンナ・アレント (訳)志水 速雄
ちくま学芸文庫 を読みました。
ハンナ・アレント…
どこかで聞いたことがあるけれども
読んだことはないぞ。
すぐに検索を掛けて
著書をひと通りチェックして
ここから読もうと決めたのが本書でした。
人間の条件。
いや別に生まれてしまえば条件なんてないし
でもなくはないかと思いながら
すぐにポチっとしたのですね。
どんな内容か全然知らずに
楽しみにしながら読み始めたのでした。
目次
プロローグ
第I章 人間の条件
第II章 公的領域と私的領域
第III章 労 働
第IV章 仕 事
第V章 行 為
第VI章 活動的生活と近代
謝 辞
訳者解説
索 引
感想
とても平易な言葉遣いですし
文脈自体もそれほど複雑ではないのですけど
なぜか理解が追い付かない。
物事の本質を
これでもか、これでもか、と
連発するのがハンナ・アレンとの流儀なのでしょうか。
哲学本は、理解するしないよりも
読み、感じることを優先する私としては
とても興味深く思いましたし、
大変勉強になりました。
まあ私なんぞが四の五の言うよりは
恒例の私がグッと来た箇所をご覧ください。
かりに私たちが
本性とか本質をもっているとしても、
それを知り定義づけられるのは、
明らかに神だけである。
神がそれをよくなしうるのは、
なによりもんまず、
神は ”who” について、
それがあたかも ”what” であるかのように
語ることができることであろう。
厄介なことに、
「自然的」特質をもつ物、
ー人間とは有機的生命の最も行動に発展した種の
一例にすぎないと限定してしまえば、
ここに人間自身も含めてよいーには
適用できる人間の認識方式も、
「われわれは何者であるか?」という
問いを提出する場合には通用しない。
これこそ、人間の本性を定義づけようとする企てが、
必ず、ある種の神の創造に終わり、
結局、哲学者たちが最後には
神を創造せざるをえない理由なのである。
(P.24)
少し長いですが
導入部の最大のポイントと考え書きました。
人間とは何だ?という問いに対して
人間とはこうだ!という答えがあるものではありません。
だから「神」を人間は作るのですけど
これは「宗教」としての神だけではなく、
自分を神のように感じる時もあれば
メンターを神のように崇めるなんてことも
あって良いでしょう。
私たちは死ぬまでプロセスなのだから
今よりも少しより良い考えを持ちたいですね。
統計学の法則が有効なのは、
対象が多数あるいは長期の場合に限られており、
活動の結果や出来事は、
統計学的に見ると、
ただ逸脱あるいは偏差としてしか現われない。
統計学が存在するのは、
偉業や出来事が日常生活や歴史の中では
まれにしか起こらないからである。
それにもかかわらず、
日常的な関係の有意味性が顕になるのは、
日常生活においてではなく、
まれな偉業の中においてである。
したがって、歴史的時代の意味も、
それが示されるのは、
その時代を明るみに出す
わずかな出来事においてのみである。
(P.66)
だから政治に意味を求め、
歴史に重要性を発見しようとしても、
うまくゆくはずはないと続くのですが、
結局、人間は欲望の動物であり、
欲望こそが政治であり
歴史はその結果でしかないということでしょうか。
統計学や科学は
欲望を排除したものであるはずなので
私たちはリアルなサイエンスに対して
もっと信頼を置いて良いのかもしれませんね。
たとえば、奴隷であることが呪われたのは、
奴隷がただ、
自由と可能性を奪われていたからだけではない。
むしろ奴隷は
「無名状態にあるために、
自分たちが存在していたという痕跡を
なに一つ残すことなく
去らなければならない」ことを恐れた。
奴隷状態が呪われたのは、
これら無名の人びと自身の
このような恐怖にもあったのである。
(P.83)
制度としての奴隷は解放されたけれども
精神的奴隷であるとか
社会構造上の奴隷というのは
今でも厳然と存在するのかもしれませんね。
官僚、公務員、サラリーマン。
これらを養成するために
日本の教育は制度改正を繰り返したわけだけど
もうそんなことをしている場合じゃないです…。
善行は、行われた途端に忘れられなければならない。
なぜなら、記憶でさえ、
善の善たる特質を滅ぼしてしまうからである。
さらに、思考は、
記憶されるものであるから、
結晶して思想となる。
そして思想は、記憶されるからこそ
存在できる他のすべてのものと同じく、
書かれたページや印刷された本のように、
蝕知できる対象に変形されて、
人工物の一部となる。
ところが善行のほうは、
すぐに忘れられなければならないから、
けっして世界の一部分となることはない。
それは、生まれ、なんの痕跡も残さずに去る。
実際、善行はこの世界のものではない。
(P.107~108)
善が善であるためには
一瞬にして忘れて、残さないこと。
わかるような
わからないような…ですけど
そのほうが善っぽくていいようには思いました。
善の押し売りでは
もう善ではないですからね。
行き過ぎた正義感は
個人の欲望とも言えるかもしれません。
自然の過程は、
人工の世界に入ってきたときにのみ、
成長し、衰退するのである。
たとえば、自然の産物である
この木やあの犬を個体として考え、
「自然的」な環境から
私たちの世界の中に移したときにのみ、
それらは成長し、衰退し始めるのである。
自然は、人間の肉体的機能の循環運動を通して、
人間存在における自然を明示する。
第二に、自然は、人口の世界を老化させたり、
衰退させたりして、
それにたえず脅威を与える。
これによって、自然は、人工の世界においても
その存在を感じさせるのである。
(P.153~154)
科学は自然から生まれたのだし
自然と共生することでしか
発展しないのではないかと思います。
だからこそ私たちは自然から目を背けてはいけない。
経済発展を優先して
何度も自然からしっぺ返しを喰らっていますからね。
「権力は権力を生む」という
近代の最も鋭い政治的洞察と同じく、
「金が金を生む」という
近代の最も粗野な迷信が真実らしく思えるのは、
それが、生命の自然の繁殖力という
隠喩に支えられているからである。
人間の活動の中で、終わりがなく、
生命そのものに従って自動的に進み、
しかも、意図的な決定や
人間的に意味のある目的の範囲外にある
活動力というのは、労働だけである。
(P.162)
素直に納得した。
昨今では働かないことに
価値を見い出す人が多いけれども
それは自然として間違っていると思うな。
人間の工作物の創造者<工作人>は、
これまで常に自然の破壊者であった。
自分の肉体と家畜の助けを借りて
生命に養分を与える<労働する動物>は、
たしかに、すべての生きものの
支配者であり主人であろう。
しかし、それでもやはり、
自然と地球の召使いにすぎない。
(P.228)
工作人に価値があるとは思えないけど
経済発展のためには有効でしょうか?
しかし資本主義社会が前提であり
これ以上開発する場所がなくなって
貧富の差が大きくなるばかりの現代社会で
果たしてどう存在価値を示すのか?
限界が近いんじゃないかな。
<工作人>の用具と道具は、
手段性について最も基本的な経験を与え、
すべての仕事と制作を決定する。
ここでは、本当に、目的が手段を正当化する。
その上、目的は手段を生みだし、
手段を組織する。
(P.244)
手段と目的を混同してはならないと
私はキャリア論でよく語るのですが、
目的こそが手段を正当化して
生み出し、組織するという考え方は
非常に面白く感じました。
多種多様な人びとがいるという人間の多様性は、
活動と言論がともに成り立つ基本的条件であるが、
平等と差異という二重の性格をもっている。
もし人間が互いに等しいものでなければ、
お互い同士を理解できず、
自分たちよりも以前に
この世界に生まれた人たちを理解できない。
そのうえ未来のために計画したり、
自分たちよりも後にやってくるはずの人たちの
欲求を予見したりすることもできないだろう。
しかし、他方、もし各人が、
現在、過去、未来の人びとと互いに異なっていなければ、
自分たちを理解させようと言論を用いたり、
活動したりする必要はないだろう。
なぜならその場合には、
万人に同一の直接的な欲求と欲望を伝達する
サインと音がありさえすれば、
それで十分だからである。
(P.286)
差異ばかりが目立つようになり
平等を失う一方の現代社会のなかで
私たちは今をどう生きて
いかに未来に繋げていくのがよいのでしょうか。
権力を実現することはできるが、
それを完全に物質化することはけっしてできない。
この点で権力も他の潜在能力と同じであるが、
この特殊性ゆえに、権力は、
数あるいは手段という物的要因と、
驚くほど無関係である。
(P.323)
権力は大小の問題ではなく
本質の問題なのだろうなと思いました。
大小、強弱、軽重、バランスを超えた
表現のしようのない迫力の問題と言えそうです。
マルクスは、
「暴力は新しい社会を孕むすべての古い社会の産婆であり」、
暴力は、歴史と政治のすべての変化の産婆であると述べた。
このマルクスの格言は、
近代全体の確信を要約し、
ちょうど自然が神によって「作られる」のと同じように、
歴史は、人間によって「作られる」という
近代の内奥の核心を結論づけたものにすぎない。
(P.359)
私たちの社会は
ある種、自然を模倣したものに過ぎない。
そんなことを考えたのですが
いかがでしょうか?
なるほど、人間は死ななければならない。
しかし、人間が生まれてきたのは
死ぬためではなくて、
始めるためである。
(P.385)
これ、好きです。
生きる目的を見失っている人は
ほぼ始めない人ではないでしょうか?
いいかえると、実験の世界は、
常に人工的なリアリティとなりうるようにみえる。
そしてそのために、なるほど、
制作し活動する人間の力、
世界さえ創造する人間の力は、
増大したであろう。
実際、今日人間の創造力は、
かつて夢とか幻想の中で
精いっぱい想像されたものを
はるかに超えているだろう。
しかし残念なことに、
そのおかげで今ふたたび人間は、
以前よりもっと強力に
自分自身の精神の牢獄の中に閉じ込められ、
人間自身が作り出したパターンの枠の中に
閉じ込められているのである。
(P.454~455)
精神の牢獄の中に閉じ込められる。
制度としての奴隷だけではない
精神的奴隷は現代社会でも
私たちの心の中にも
現存しているのかもしれません。
そこから解放されるためには
さらなる創造よりも
資本主義や民主主義から離れて
今までにない発想から
やり直す必要があるように感じます。
評価
おススメ度は ★★★★☆ といたします。
率直に申し上げて
かなり難しかったです。
ただクセになる難しさと言いますか
不思議とまた読みたくなるんですね。
私にとっては初のハンナ・アレントでしたけど
おそらくいずれ
また読むことになりそうな予感がします。
それでは、また…。
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