ある読書好き医療コンサルタントの「書評」ブログ!

年間60~70冊ほど読んでます。原則毎週日曜日に更新しますが、稀にプラスαもあります。本好きの方集まれ!

知覚の哲学 ラジオ講演1948年

 

おはようございます。

 

読書がライフワークになっている

医療業界のコンサルタント

ジーネット株式会社の小野勝広です。

 

もし自分が読書ができない人だったら

どんな人生になったんだろうか?と

かなり不安になります。

 

もちろん読書が嫌いでも

しっかり勉強できる人もいらっしゃいますが

私の場合は

勉強の9割以上が読書と言っても

過言ではないのが現実ですので

もし読書しない人だったら

相当に苦しい人生を歩んでいたんだろうなと

恐怖を感じます。

 

読書好きで良かった。

まともな人間でいさせてもらってる気もする。

 

今回ご紹介する書籍は、

【 知覚の哲学 ラジオ講演1948年 】 です。

 

 

本書をピックアップした理由

『 知覚の哲学 ラジオ講演1948年 』

モーリス・メルロ=ポンティ 

菅野 盾樹(訳) を読みました。

 

メルロ・ポンティ。

 

いろんな哲学書を読む中で

何度となく引用されていたりして

名前にもインパクトがあり

いつか読んでみたいなと

漠然とした興味を持っていました。

 

たまたま出会ったのがこの本なのですけど

事前知識はほぼゼロですし、

メルロ・ポンティを読むに当たって

本書でいいのかもよくわかりませんが

まあ、とにかく読んでみるかと思い

興味津々で手に取ってみました。

 

ちなみに今まで読んできた哲学系の本は

下記をご覧下さい。

 

ka162701.hatenablog.com

 

目次

第1章 知覚的世界と科学の世界

第2章 知覚的世界の探索ー空間

第3章 知覚的世界の探索ー感知される事物

第4章 知覚的世界の探索ー動物性

第5章 外部から見た人間

第6章 藝術と知覚的世界

第7章 古典世界と現代世界

 

感想

私にとって哲学とは

自分のバカさ加減を知るためであったり、

わからないということを

何度も何度も確認したいという意味合いがあります。

 

わかるというのも大事ですし、

学びとは理解しなければいけません。

 

しかし同じくらいに

わからないことを知るということが

「超」大事ではないかと思うんですね。

 

本書はとても珍しい部類の内容です。

 

メルロ・ポンティの講演よりも

注釈のほうが何十倍も長いのです。

 

こんな本は初めてですが

それだけ丁寧に解説しないと

メルロ・ポンティの思想は

理解できないということでしょうか?

 

初めてメルロ・ポンティを読む私としては

とても助かったのですが、

訳者の菅野盾樹さんも哲学家のようですし

わかりやすい解説でしたので

その点は大変に有難かったです。

 

ただ、いつもの如く、

どこまで理解できたのかは心許ないです。

 

それでも読み続けるだけの価値が

哲学にはあるんじゃないかと思っていますし、

メルロ・ポンティもいつの日か

また読むような気もします。

 

それでは恒例の私がグッと来た箇所をご紹介いたします。

 

この宇宙には

法則による計算で割り出すことのできる

「可能性」はあるが、

アリストテレス形而上学における

「潜在性」の余地はない。

知覚の現象学の見地から見れば、

このように規定された宇宙の概念は、

知覚が把握する世界の構成的起源から切り離され、

その起源が隠蔽されたために

あたかも客観的存在であるかのように

仮想されたものにほかならない。

(P.51)

 

宇宙すら疑う。

これぞ哲学だと思います。

 

正解はない。

ないけどある。

あるわけない。

あるにはある。

あるのかもしれない。

 

まあこんな風にして

序盤戦から頭にキックを入れました。

 

このくだりでメルロは、

科学が完全な世界像を提供することの

不可能性を明言している。

科学的分析はいつでも十全ではありえない、と。

(P.60)

 

科学は事実でありますが

可能か不可能かと問えば

不可能の先にしか

可能はないのかもしれません。

 

いかなる現実も真・善・美の価値基準にはなりえない、

という原則のことである。

したがって、あらゆる種類の現実

(これには、特定の集団、全体社会、国家、民族、

 国際社会、人類などのあらゆる水準が区別される)を

価値判断の基準にしてはならない。

むしろ知識人はこれらの現実と直接に交渉するのをやめ、

静かで平穏な情況に身を置き、

ただ普遍的な理性の声にだけ耳を澄ますべきである。

(P.83)

 

なるほどな。

現実とは何か?を問うのではなく

現実は素直に向き合って

自然な対応をするしかないんだな。

 

概念が隠喩的であるという理由だけで

批判されるいわれはないし、

隠喩が認識と没交渉な趣を

文章に与えるにすぎないというのは誤解である。

言語表現(文学、科学などのジャンルを問わず)にとって

隠喩ならびにその他の比喩(換喩、アイロニー誇張法など)は、

基本的に不可欠な認知的役割を演じている。

概念に対して問われるべき点は

ー字義的に構成された概念と同じようにー

それが妥当性をもつか、

その限界はどこにあるか、ということにすぎない。

(P.102)

 

概念を言語表現でゴマカシてはいけない。

概念は妥当か否か、

その限界はどこか、

それだけでいいということ。

 

メルロによれば、

人間行動を理解するためには、

観念論や主知主義を捨てると同時に

機械論も捨てなくてはならない。

私たちが赴くべきは身体性の存在論なのである。

(P.106)

 

結果論でいいのか?

ありのままを見ろということか。

 

人間は自由だからこそ、

将来に向かって自己を拘束し、

いまの自己を超えて

不確実な将来の自己に賭けるのだ。

この考えと用語は社会問題への参加を

哲学的に基礎づけるものとして

ひろく人口に膾炙するようになった。

(P.170~171)

 

自由には責任が伴うし、

責任を持つために自由であるべき。

人とのコミュニケーションや

社会との関わりの原則か。

 

科学的認識は二つの切断を介して

ようやく得られる。

まず、常識(無意識化している知識を含む)と

科学的認識とを切り離さなくてはならない。

次いで、現行の科学的認識と

生まれつつある認識とを切断しなくてはならない。

常識や現行の科学理論は

新しい科学的認識の障害にすぎないからだ。

(P.209)

 

科学を規定することで

真の科学から乖離してしまうのか。

 

常識と認識から距離を取ることで

科学は科学足り得るのか。

 

問題の核心は、

正常な大人の世界が

実際には整合性を有してはいないことです。

整合性はひとつの理想ないし

事実上到達されえない限界なのです。

したがって、その世界はそれだけで簡潔できませんし、

「正常人」は異常さを理解することに

意をもちいなくてはなりません。

正常人も異常さを決して免れないからです。

(P.231)

 

大人とか、正常人とか、

そんなレッテルを貼ることで

むしろ大人を、正常人を

無価値なものに陥れるというのはある気がする。

 

人間という種は、

まだ果たされていないし

果たされることもない使命、

完璧でなくとも

是非成就すべきだと

必ずしも言えない使命にコミットしていますが、

人間にとって「自分の置かれた」

こうした情況が同時に不安の動機であり

勇気の動機でもあるのは理解できます。

この二つの動機は実は一つのものです。

不安であるとは警戒することですから、

そこには人間が現になしていることと

なすべき呈示された目標を知る意志、

判断する意志がともないます。

「人間にとって」善い宿命がないというなら、

まして悪い宿命などありません。

勇気は自己と他者を信頼することのうえに成り立ちます。

そのためには、「人々がおかれた」

物理的・社会的情況のあらゆる相違にもかかわらず、

彼らの行為そのものや彼らの関係そのものが

同じ火花を発するようにさせましょう。

この火花が、私たちに彼らの情況を知らしめ、

彼らを評価や批判することを必要とさせ、

私たちに共通の運命を負わせるのです。

(P.305~306)

 

人間って複雑だなと思います。

医学的にもまだ解明されていないことは多いですし、

哲学的には何ら解明されていないとも言えるかもしれません。

 

わかろう、わかろうとしても

一向にわかるようなものではありませんし、

わかった気になったり

わかったフリをし続けているのが

哲学なのかもしれず、

むしろわかろうとし続けること自体が

哲学なのでしょうか。

 

そんな学問に意味があるのか?

あるのかないのかは私にはわかりませんが

意味がないと思う人には

おそらく何の意味もなくなりますし、

意味があると思う人には

強烈な意味をもたらすようにも思います。

 

ここでメルロは、

現存在が周囲の世界で出会う存在者の

主要なカテゴリーを二つ挙げている。

一つは道具であり、もう一つは言語である。

(P.328)

 

う~ん、これをどう解釈すべきか。

道具と言葉というカテゴリー。

 

確かに私たちの日常から道具をなくし

言葉を失わせてしまったら

ある意味では

生きる屍のようになってしまいそうです。

 

私たちは何のために生きているのか?

何をするために生きるのか?

そんなことを考える必要があるのか。

何だかいろいろ考えちゃいますね。

 

伝統的な哲学は、

たとえばプラトンにおけるように

「世界とは何か」、

「世界に存在するのはどういうものか」、

「人間とは何か」など、

実在するものへ

直接的に問いを向けるのがふつうだった。

時代が下り近世になると、

哲学の問いは、

実在するものではなく、

実在の<観念>や<表象>に集中することになった。

なぜなら、人間は<観念>や<表象>を通してしか

実在に近づく手立てがない、と考えられたからである。

(P.414)

 

哲学はどこから来て、どこへ向かい、

何を私たち人間に与えるのでしょうか。

 

果たして未来人は

哲学を必要とするのか?

学問として廃れてしまうのか?

 

100年、1000年単位で考えると

少しワクワクしますけど

その頃には私はもうこの世にいないんだな。

 

せめて生きている間は

もう少し哲学を学び、

哲学的に生きたいと思います。

 

評価

おススメ度は ★★★★☆ といたします。

 

わかるようでわからない哲学。

わからないけど少しはわかった気もする哲学。

 

個人的には学び続けようと思いますけど

本書をどれだけおススメできるかと問うと

ちょっと微妙です。

 

哲学を学び続けている人にとっては

若干物足りないんじゃないかと思いますし、

これまであまり学んでいない人には

かなり難しいように思います。

 

それでは、また…。

 

 

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