ある読書好き医療コンサルタントの「書評」ブログ!

年間60~70冊ほど読んでます。原則毎週日曜日に更新しますが、稀にプラスαもあります。本好きの方集まれ!

女は何を欲望するか? 

 

おはようございます。

 

読書がライフワークになっている

医療業界のコンサルタント

ジーネット株式会社の小野勝広です。

 

この書評ブログは

読み終えたら書き、

読み終えたら書くという

自分のなかではタイムリーな段階で

すべてを書いています。

 

しかし毎週日曜日更新を自分に課しているため

少し余裕を持ちたいこともあり、

何本かを書き溜めています。

 

このブログを書いているのは

2024年3月29日です。

 

実際にアップされるのはもう少し先ですけど

今期(2023年度)の最後の書評ブログかと思うと

ちょっと感慨深いです。

 

今回ご紹介する書籍は、

【 女は何を欲望するか? 】 です。

 

 

本書をピックアップした理由

『 女は何を欲望するか? 』

内田 樹 角川oneテーマ21 を読みました。

 

本書は2002年に発行された単行本を

大幅に加筆修正して

2008年に新書化したのだそうです。

 

実は購入したのは

随分前だったのですが

何だか凄いタイトルじゃないですか。

 

他にも内田さんの本は

読みたいものが目白押しですので

後回し、後回しになっていたのです。

 

ただこれ以上後回しにすると

もう読まないかもしれないと考えて

一念発起して読み始めたのでした。

 

目次

まえがき――私がフェミニズムについて知っている2,3の事柄

 

フェミニズム言語論

第1章 「女として語る」ことは可能か?

  女の謎/他者の言葉/言葉の檻

第2章 フェミニズム言語論の基本構制

  問題の所在

  /シモーヌ・ド・ボーヴォワールヘーゲル主義的フェミニズム

  /リュス・イリガライー「女として語る言葉」

第3章 女性と言語――ショシャーナ・フェルマ

  性化された語法/抵抗する読み手/懇請する読み/

  「女として読む」ことの困難さ/抵抗と逸脱/

  バルトのテクスト論

第4章 「女として書く」こと

  言語はほんとうに「性化」されているのか?/女性の伝記/

  私と言葉の乖離/トラウマ/私の創成/

  終わりなきジェンダー・トラブル

 

Ⅱ フェミニズム映画論

第1章 エイリアン・フェミニズム―欲望の表象

  屋根の上の赤ん坊/体内の蛇/性関係と映像/母性の復権
  憎悪の映像/「物語」のために

第2章 ジェンダー・ハイブリッド・モンスター

  抑圧されたことば/自立する女性と攻撃的性欲/

  同志的母子関係と不能の男たち/

  デジタル・セックスのアナログ化/

  ラディカル・フェミニズムへの嫌悪/

  アモルファス・セックス/

  デジタル・ボーダーの破壊と再生/世界の基底


あとがき

 

感想

まえがきで内田さんは

『タイトルがすごいですね。

 何人もの友人から

「内容は面白かったんだけど、

 あのタイトルなんとかならない」』と

言われたと書いています。

 

やはりそうですよね。

でも読んで良かったです。

いろいろ勉強になりました。

 

まず本書は内田さんの著書のなかでは

かなり古いものと言えるでしょうか。

 

文章が固いんです。

哲学書のような真面目さがあるんです。

 

最近の著書とは違ったその感覚が

私にはとても新鮮でした。

 

それとフェミニズムが本書のテーマですが

正直私はあんまりフェミニズムに興味がなく

どちらかと言うと近づきたくない分野です。

 

ただ無視していいものとは思っていませんし、

私自身、家に帰れば妻と娘、

会社も女性ばかりの環境で生きていますので

女性の権利向上は当然のことと考えています。

 

ですからどこかでフェミニズムについては

知識を得なければならないと思っており、

それならやはり内田さんの著書でしょうと思ったのですが

期待を超える論及が随所にあり、

とても考えさせられるとともに

内田さんの主張には頷かされるところが多く、

深みのある知識を得ることができました。

さすがです。

 

それでは恒例の私がグッと来た箇所をご紹介いたします。

 

「自分の理論をうまく適用できる事例には適用し、

 うまく適用できない事例にはむりに適用しない」。

これが私の「黄金律」である。

(P.12)

 

ごく当たり前のことですが

冷静に振り返ってみると

このごく当たり前のことが

いかにできていないか…。

 

人間の愚かさであり

私たちが猛省しなければならないのでしょうね。

 

私たちは他者の理解と承認を求めて、

しばしば自分について語る。

正直に、かつ確信を込めて、

「私は……である」と断定することもある。

しかし、経験的に知られているように、

そのように自己規定するときに、

私の側にはつねに何らかの「下心」が働いている。

「そのような人間」として

他者から「承認」を受けたいという欲望が

私の語りをコントロールしている。

(P.36)

 

言われてみれば確かに…ですね。

自分で自分にバイアスを掛けるというか

人間って自分勝手な生き物ですね。

 

そういう感情をできるだけ抑えることができるのが

成熟した「大人」と言えるのかもしれません。

 

人間が糧とするのは、

食物や生理的安息ではない。

人間は他者に愛され、承認され、

他者の欲望の対象となることを糧として生きるのである。

それが、「人間の欲望は他者の欲望に向かう」という

テーゼの意味である。

したがって、人間が人間的であるためには、

それぞれ相手の欲望の対象となろうと望む

二人の人間が向き合っていることが必要である。

この二人のそれぞれが

「自己を他者に『承認』させ、

 至高の価値として自己を他者に認めさせる」という

「自己の欲望の充足」のために一歩も引かなかった場合、

「両者の遭遇は生死をとしての闘争とならざるをえない」。

しかし、この闘争は厳密に言えば

「生死を賭しての闘争」ではない。

というのは、この闘争で相手を殺してしまった場合、

「他者によって承認される」ことが

不可能となってしまうからである。

(P.48)

 

精神面で考えればその通りですけど

やはり人間には物質的なものも必要とは思います。

 

ただここで言う欲望や承認は

その名の通りの意味だけではなく、

もっと深い「意味合い」もありますよね。

 

この「意味合い」的に考えると

こちらの文章には私たちの生き方を、

どう生きるべきか、いかに考えるべきかを

示唆しているように思えます。

 

私たちは、物語を読みつつあるとき、

ディテールのいちいちをおのれ自身の価値判断や

社会的立場とすり合わせて、

「これは受け容れられるが、これは受け容れられない」

というふうに選別を行っているわけではない。

そんな面倒なことを私たちはしない。

読むというのは、

そのような中枢的にコントロールの利いた活動ではなく、

もっと自由で、もっとでたらめな営みだからである。

(P.74)

 

こんな書評ブログを書く私ですし、

一応ですけど、自称では読者家です。

 

でもこの文章には納得しました。

そしてそれでいいとも思います。

読書は手段でありますが

大事なのは結果ではないでしょうか。

 

読んだ結果として

自分にどんな変化が起きたのか?

 

私たちがここで重視しなければならないのは、

テクストからの一つのユニークで

オリジナルな意味を読み出したことによって、

読者自身がいわば事後的に

「私」が誰であるかを知る、ということである。

これは現代の読書論の中では

おそらくもっとも生産的な知見であると

私は思っている。

(P.85)

 

私が誰であるか。

なかなか哲学的な言いようですが

裏を返せば

私たちは自分が誰であるかを

いつも見失っていて

読書をすることで

少しだけおぼろげながらに見えてきて

また見失い、

また読書するという

そんな人生のサイクルがあるのかもしれません。

 

すでに見たとおり、

これは言語と主体にかかわる議論の

もっとも困難でもっとも射程の遠い

根源的難問である。

哲学史が教えてくれているように、

根源的難問に対処するときの

もっとも生産的なアプローチは

「この難問には回答できない」と

素直に認めることである。

そして、「回答できない」という

当の事実から最大限の知的資源を汲み出すことである。

(P.98)

 

わからないものは

わかった気にならずに

わかるまで保留しておく。

 

知的な人間の基本的姿勢と言えますね。

 

大衆芸術としての映画は

そのような仕方で

現実的な矛盾を矛盾のまま提出し、

その「解決」を宙づりにし、

「最後の言葉」を先送りにしてきた。

もしマルクスが二十世紀に生きていたら

きっと「映画は人民の阿片である」と言っただろう。

マルクスが言わなければ私が代わりに言ってもいい。

「映画は人民の阿片である」。

しかし私たちの欲望や不安はつきるところ

「物語」として編成されており、

それは「物語」として紡がれ、

また解きほぐされてゆくほかないのである。

私たちが映画に望んでいるのは

「最終的解決」ではない。

ラストシーンに私たちが見たいのは

to be continued の文字なのである。

(P.183)

 

この部分は「フェミニズム映画論」の箇所で

映画「エイリアン」シリーズについて

内田さんが詳細にわたって解説しています。

 

控えめに言って

ここは「超」読みがいがありましたし、

実に面白かったです。

 

私がエイリアンを観たのは

もう随分前になりますけど

再度観ようかと思わせてくれました。

 

ストーリーに隠されたテーマを

ここまで想像し、わかりやすく解説できるのは

内田さんを置いて他にいないでしょう。

 

私は本好きでもありますが

週に2~3本の映画も見るんです。

 

これからは映画の観方が

変わるんじゃないかというくらいに

実に感じ入りました。

 

フェミニズムは私の「宿敵」である。

「宿敵」と言う以上、

この論争は

「どこまで行っても決着がつかない」

ということである。

私が「フェミニズムを完全に論破した」と思うことは

絶対に起こらないだろうし、

私が「フェミニズムに完全に屈服した」ということも

起こらないだろう。

それは私が

フェミニズムは正しい、でも間違っている」という

あいまいなポジションにいるからである。

フェミニズムが社会的リソースの

公正な分配を求める政治的運動である限り、

私はこれを原則的には支持する。

「原則的には」という留保がついているのは、

性差にかかわる制度のうちには

人類学的必然性があって設けられているものがあり、

それらの性制度のすべてを廃絶することは、

当の女性たちにとって

利益よりも不利益のほうが多いのではないかと

私が考えているからである。

(P.214)

 

大変に腑に落ちましたし

内田さんのフェミニズムに対するスタンスが

ここに集約されているのだなと思いました。

 

今となってはフェミニズム運動自体が

かなり下火になってしまっていますけど

その理由もここにあるのでしょうね。

 

女性のための活動が

女性のためになっていない…と。

 

評価

おススメ度は ★★★★☆ といたします。

 

フェミニズム論争は

どうしても今さら感がありましたが、

内田さんの主張には感じ入るところが多かったです。

 

またフェミニズムを抜きにしても

本書は読む価値があると思いました。

 

それでは、また…。

 

 

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