おはようございます。
読書がライフワークになっている
医療業界のコンサルタント
ジーネット株式会社の小野勝広です。
私は大人こそ
哲学を学ぶべきだと思ってます。
ごく一部の哲学好きの方だけではなく、
大人の嗜みとして
激動の時代を生き抜くために
ベースの知識、知見として
哲学を持っておくべきと考えております。
学問としての哲学ではなく、
実学としての哲学の基本という感じです。
まあ私もそんな偉そうなことを言える分際ではなく
理解度は決して高くはないものの
今後も哲学は継続して学んでいく所存です。
今回ご紹介する書籍は、
【 哲学以前 】 です。
本書をピックアップした理由
『 哲学以前 』
出 隆 講談社学術文庫 を読みました。
何だったかなあ?
本書を知ったのは何かの本だったと思います。
たぶん内田樹さんの著書で
取り上げられていたようにうっすら記憶していますが、
この哲学「以前」というタイトルに惹かれたのです。
哲学の「前」ですからね。
いったいどんなことが書かれているんだろう?
いわゆる哲学の入門書として
最適なんじゃないか?
そんなことを考えながら
久しぶりに哲学を勉強するぞ!と
学ぶ気満々で本書を手に取りました。
ちなみに当ブログで「哲学」で検索すると
今まで読んできた本がズラズラと出てきますので
ご参考になさって下さい。
目次
真理思慕
・真理への愛欲と知欲=知識欲
・新生としての哲学的精神
・哲学への要求と非難
立場と世界
・学問とは何か
・そのままの事実すなわち純粋経験とこれを見る立場
・種々の立場、立場における真理及び立場以前
・立場とその立場における世界
・立場の立場=哲学の立場
・常識と哲学、さらに立場の考察
・科学と、科学批判としての哲学
・科学の方法と哲学の方法
・芸術的の態度
・宗教的の態度
・真理について
・科学的の立場における実在と真理
・芸術及び宗教と絶対界
・結論=道徳と哲学
感想
本書の初版は1921年に発行されたようです。
それいつ?ってなもんですが、
逆に言うとこんなに長い間ずっと読まれ続けるなんて
やはりそれだけの価値があるということなのでしょう。
事実、本書は哲学書のなかでは
わりと平易で、わかりやすさを意識して
書かれたように感じます。
しかもそもそも論に踏み込んでいます。
哲学とは?という問いに
多方面から多角的に答えてくれており、
哲学自体への理解度が高まります。
もちろん難解なところもありますけど、
それでも読もうという気持ちになりますし
本書は哲学を学ぼうという方の
ある種の登竜門と言えるかもしれませんね。
それでは恒例の私がグッときた箇所をご紹介します。
この話は、
「哲学とは何か」の考察に始まらねばならぬ。
それだけは承知している。
しかし、ただそれだけでもはや一歩も身動きができない。
そこには不審がある、疑惑がある、
迷いがある、淋しさがある、
自問の責苦がある、躊躇の足枷がある、
それは悪夢の沼を渉らんと焦慮する者のごときである。
いかにするも次の一歩が踏み出せない。
淋しく迷ったあげくの果てに、
心は振り出しの変更を求める。
しかし、何から始むべきか、何が始めであるか。
始めは何であるか。
「始め」とは何か。
「何」とは何か。……
(P.14)
この言葉は本論の最初の部分です。
いかにも哲学っぽくていいですね。
哲学ってのはこうでなくっちゃ(笑)。
そもそも哲学とは何か?なんて問いに
簡単に答えられるのであれば
別に哲学なんてなくていいと思います。
かくしていわば常識的な知識から科学的の、
諸科学的のから哲学的の知識へと進んでゆく。
その他種々の方向に進むであろう。
しかし、この発展進歩は独り個人においてのみなく、
人間思想の発達史においてもその影が見られる。
すなわち、たとえばある時代の知識欲が
終極的の真理として作り出した知識も、
後には単なる平凡日常の常識であることがあり、
また、ある時代には哲学的真理を得んとしていた知識欲でも、
今では科学的努力の不完全な萌芽としか見えないなどである。
だが、真の知識欲は、
たといその所産なる知識内容はいかなる程度に止まろうとも、
常に理想的の真理をねらってすすむ。
(P.26)
これは哲学だけの話しではなく、
私たち人間思想の発達史ということでもなく、
単に時間軸の流れとして
私たちは日常的にキャリアや人生で
存分に味わっていることですよね。
そこに哲学的なアプローチを加えれば、
集合知として失敗しない方法を共有できるのかもしれません。
歴史は繰り返すではないですが、
我々人類は似たような失敗を何度もしていますからね。
実のところすでにわれわれは、
常識的にも科学的にも
種々の思想(あるいは知識)をもっている。
そしてそこには真理と信じられ、
または主張されているところの思想も多い。
しかしそれらは恐らくみな、
何らかの条件、何らかの仮定のものにおいてのみ
真理と言われうるものであろう。
(P.38)
それを問うのも哲学でしょうか。
現代社会では通用するけど
100年前や100年後では通用しない真理では
やはり真理と言えないでしょうね。
まあ100年というのは極端だとしても
昨今の時代の変化スピードで考えたら、
5年前、5年後で考えてもいいかもしれません。
真理なんてものは
本当にあるのでしょうか?
哲学に対する非難には
大体次のごとき種類がある。
すなわち第一に、
哲学は要するに難解であるというもの。
したがって第二に、
それは空理空論を弄び概念的にのみ考えるもので、
人生の真に触れていず、
あるいはまた実用に適しないとするもの。
最後に、
哲学というものには種々の異説があって、
(科学などのように)一定した説がない。
したがっていずれが真の哲学か、
また、いずれに従うべきかわからないという非難。
その他いろいろあろうが、
大体これで尽きよう。
(P.49)
まあ、そんなところでしょうね。
でもこういうことを言う人ほど
本当は哲学が必要なのだと思います。
だって自分で解決できることですもん。
それを非難に転化して
あたかも自分の主張が正しいかのように
マウント取って自己満足するなんて
大人として問題ありじゃないでしょうか?
この程度の非難をするようじゃ
哲学の道は入口でコケてしまっているように思えます。
いいから歩け、奥まで行けってことです。
とにかくわれわれは、
ただその存するがままを直下に純粋に経験(体験)するより
ほかに道はない。
そういうものがあるというほかない。
その純粋経験においては、
「われわれ」という考えさえ失われて、
ただそのままの存在に存在し、
そのままの流れに流れるよりほかはない。
(中略)
すでに「われわれが」と考えれば、
その「われわれ」は考えている
そのままの我から離れている。
しかるにいま言うそのままの世界は、
与える我とも考えられた物とも区別されない
主客未剖における我であり物であるから、
これほど我みずからに近い世界はないと言えよう。
(P.70)
われわれ、わたし、自分、オレ、
もうそう考えた瞬間に
ある意味では目を曇らせているのかもしれません。
離れるとか、離れないとかではなく、
もうありのままでいる、自然体。
それが人や物を見る目として正しいのでしょうね。
このいわゆる世界とか領域とかは、
ある立場によって統一選択されてできたもので、
したがって一つの世界と他の世界との相違は、
その世界をなす個々の事物事象の相違によるというよりか、
むしろこの世界を構成する立場そのものの相違によるもの、
立場立場によって区別的に考えられたものと見るべきであろう。
こう考えれば、
ある具体的な事物事象が必ず一つの世界にのみ
専属するのでないということも理解されよう。
(P.103)
ここで立場が出てくるんですね。
そう考えると一体立場とは何なのでしょう?
何のためにあるのでしょう?
相違を明確にするため?
う~ん、そういうことなのか、
それでいいのか?
要するに常識というものは、
これを所有しこれを使用する
「われわれ」のいかんによって推移変動するもの、
すなわち流動性に富む概念であって、
何を常識と呼ぶかは、
それを所有し使用する「われわれ」との関係によってきまり、
すこしも常識の内容それ自身には標準を有しない。
したがって、常識的に対する
専門的、科学的、哲学的などの関係は
客観的の標準できまりもせず、
また相互排他的な対立関係にあるのでもなくて、
単に「われわれ」との関係における
相対的推移的関係のものと見られる。
あるいはいかなる場合にある知識ないし判断が
常識的となり常識的と呼ばれるかと問うべきであろう。
(P.120~121)
私たち日本人は常識にこだわり過ぎるところがありますが、
本来は常識を守るとか、こだわるのではなく、
常に新しい常識を作り上げることこそが
常識なのかもしれませんね~。
今まで最も明瞭にわかっていたことに対して
初めて脅威を感じたとき、
この驚異の念から人は哲学するようになるのである。
いまだ哲学する気にならない人からみれば、
哲学の対象は全く平凡なわかり切ったものであろうが、
哲学する者はこの明瞭なもののうちに最も不明なものを発見する。
明瞭であったものを仮定だと意識し、
これにむかって専心するのが哲学的精神である。
根源を知ることが哲学することである。
知識をもって知識の立脚地を知らんする努力が哲学である。
普通に哲学の部門と考えられている認識論は
哲学のこの任務を果たさんとするもので、
その大部分は科学批判すなわち科学的認識の批判である。
(P.151~152)
この箇所はスゴイです。
私が生意気にも哲学を学ぶべきだと言い続けているのは
おそらくこういうところが理由なんだと思います。
わかったという瞬間。
これ以降が危ないんですよね。
子供の頃のテストのための勉強ならいざ知らず、
大人は本当にわかったのか?
この奥には何かないか?裏側はどうだ?という発想が
生存戦略として必要ではないでしょうか。
すなわち、普通に哲学は、
宗教とは違って全く客観的に物そのもの宇宙そのものを
根本的に理解しようとするもののように考えられており、
科学もまた、いな科学こそ、
厳密に主観的要素を排除して
全く客観的に客観的真理を示すところの
唯一の途のように考えられている。
そしてとくに科学についてのこの考えのゆえに、
芸術及び哲学の表現するところは
全く主観的な想像力から出た空想であり、
事実に合わない虚偽を示すものであると見さげられる。
(P.188~189)
このあたりはそれが正しいか否かは別にして、
哲学ってこうじゃん、科学はこうでしょ、
宗教はこうだし、芸術はこうだよね…という
自分の考えを整理するのに適していそうですね。
いかなる立場にも囚われないで
率直に経験する者にとっては、
かかる創造は常にどこにも感じられているが、
知的に反省するを慣わしとするわれわれは、
とかく「何故に」、「何に因って」と考える。
(P.198)
哲学を学問として捉えると
ちょっと素人には手が出せなくなりますけど、
哲学的アプローチは人生を考えるにあたって
かなり役立つのではないかと考える私にとって
この箇所は、まさにそうと膝を打ちました。
宗教は主観的、個人的、具体的であり、
哲学はこれに反して客観的、普遍的、抽象的だと考えられる。
換言すれば、具体的な人間が生きたまま
最高統一者に合致しようとすること、
vital unity、これがすなわち宗教であり、
哲学はむしろ客観的冷静を持して
我と世界との関係を根本から知的に考察する態度と思われる。
すなわち、宗教は個人的なこの我を主とするが、
哲学は我を客観の世界に対する一般的主観と見なしている。
(P.214~215)
なるほど。宗教と哲学の違い。
非常にわかりやすいです。
哲学者が思索するのではなくて
人が哲学するのである。
(P.230)
当たり前ですけどね、
でも原則はしっかり理解しておかないと…。
ここに彼らは真理を求めて
ついに真理を超越している。
物自体の要求としてあらわれる
われわれの哲学的努力は、
真理を求めることに発して
ついに真偽を超越するところの努力だと言えよう。
(P.269)
真理を超越する。
真偽を超越する。
どんな領域でしょうか。
そこまで深く考察している人は
現代社会では少ないでしょうね。
でも、その領域には考える意味があるのでしょう。
すなわち芸術はみずからの絶対肯定(創造)であり、
科学はみずからの反省すなわち否定(実現)であり、
宗教は否定の否定としての大肯定(復帰)である。
(P.299)
この物の見方、面白いです。
そして他に転用していくと
相当に本質をズバリと突けるようになるでしょう。
熟慮するって大事ですね。
評価
おススメ度は ★★★★★ といたします。
私は読んで良かったなと思いました。
というか、本書と出会えたことが運命みたいなものですし、
こういう古典というか、
歴史を乗り越えて伝えられてきた書物には価値がありますね。
良い勉強になりました。
本書は昔は学生に多く読まれていたようです。
学生自分から哲学を学べるなんて
非常に重要なことですね。
それでは、また…。
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