おはようございます。
医師のキャリアプランを軸にして
転職、開業、経営シーンでサポートし続ける
ジーネット株式会社の小野勝広です。
最近、古典と言われる作品に惹かれます。
そういう年になったという事なのか、
今さらなのか(笑)、
良い事を始めるのに遅すぎるという事はないと考え
今後も読み漁ってまいります。
本日のブログのタイトルは、
【 孔子伝 】 といたしました。
本書をピックアップした理由
『 孔子伝 』
白川 静 中公文庫 を読みました。
私、歴史好きを公言しながら
大変恥ずかしいのですが
中国の歴史には弱いのです…。
三国志などもどうも頭に入って来ずに
ちょっと苦手意識があります。
しかしかの国には、
傑作と言える書物は多いですし、
傑物と言える人物も多いです。
もっと学ばなきゃ…とは思うものの
なかなか手が出ないのが本音です。
日本の歴史であれば
どんな難解な書籍でもスっと手が出ますし、
欧米の歴史も然り…。
いつまでも弱いままではイカンとは思ってますので
少しずつ勉強はしておるのですが、
次は論語に行きたいんですよね。
でも玉砕しそうなんで(笑)、
チャレンジしてみたのでした。
目次
第1章 東西南北の人
第2章 儒の源流
第3章 孔子の立場
第4章 儒教の批判者
第5章 『論語』について
感想
う~ん、難しい。
覚悟はしていましたし、
かなり気合いを入れて読み始めたのですが、
やっぱり難しかったです。
本書は孔子の人物面や生き方にフォーカスしており、
それこそ論語を読む為の基礎知識のような感じです。
ところが本書を読む為には
中国史の知識がないと中々理解が進みません。
前述したように中国史には自信のない私ですから、
正直わからない部分も多かったです。
しかし非常に学びになった点もあります。
いつものごとき、下記ご紹介します。
哲人は、新しい思想の宣布者ではない。
むしろ伝統の持つ意味を追究し、発見し、
そこから今このようにあることの根拠を問う。
探求者であり、求道者であることをその本質とする。
(P.13)
すべて虚構である。
おそらく、名もない巫女の子として、
早く孤児となり、卑賤のうちに成長したのであろう。
そしてそのことが、
人間についてはじめて深い凝視を寄せた
この偉大な哲人を生み出したのであろう。
思想は富貴の身分から生まれるものではない。
(P.26)
孔子はみずからの学を、
「述べて作らず」といったが、
孔子においては、作るという意識、
創作者という意識はなかったのかも知れない。
しかし創造という意識がはたらくとき、
そこにはかえって真の創造がないという、
逆説的な見方もありうる。
たとえば伝統が、形式としてあたえられるとき、
それはすでに伝統ではないのと同様である。
伝統は追体験によって個に内在するものとなるとき、
はじめて伝統となる。
そしてそれは、個のはたらきによって人格化され、
具体化され、「述べ」られる。
述べられるものは、すでに創造なのである。
(P.70)
儒教のような一定の思想信条をもち、
儀礼の実修を行なう教団的組織が、
十分な社会的基盤や伝統の継承なくして成立しうるものではない。
思想は、社会的に特定の立場にある階層、
もしくは集団が、その存在の根拠として形成するものであるから、
いずれも社会的基盤をもっている。
それでそのイデオロギーが思想として成立し、発展し、
体系化されたのちにおいても、
なおその原資的な特徴は、容易に失われるものではない。
(P.74)
儒教は、中国における古代的な意識形態のすべてを含んで、
その上に成立した。
伝統は過去のすべてを包み、
しかも新しい歴史の可能性を生み出す場であるから、
それはいわば多の統一の上になり立つ。
儒の源流として考えられる古代的な伝承は、
まことに雑多である。
その精神的な系譜は、
おそらくこの民族の、過去の体験のすべてに通じていよう。
孔子は、このような諸伝承のもつ意味を、
その極限にまで追求しようとした。
詩において、楽において、また礼において、
その追求が試みられたことは、
すでにみてきた通りである。
そして、その統一の場として、
仁を見出したのである。
過去のあらゆる精神的な遺産は、
ここにおいて規範的なものにまで高められる。
(P.115)
孔子は、そのような伝統の価値体系である「文」の、
祖術者たることに甘んじようとする。
しかし実は、このように無主体的な主体の自覚のうちにこそ、
創造の秘密があったのである。
伝統は運動をもつものでなければならない。
運動は、原点への回帰を通じて、
その歴史的可能性を確かめる。
その回帰と創造の限りない運動の上に、
伝統は生きてゆくのである。
儒教はそののち二千数百年にわたって、
この国の伝統を形成した。
そしていくたびか新しい自己運動を展開したが、
そのような運動の方式は、
すでに孔子において設定されていたものであった。
孔子が不朽であるのは、
このような伝統の樹立者としてである。
(P.116)
人はみな、所与の世界に生きる。
何ぴとも、その与えられた条件を超えることはできない。
その与えられた条件を、もし体制とよぶとすれば、
人はその体制の中に生きるのである。
体制に随順して生きることによって、
充足がえられるならば、
人は幸福であるかも知れない。
しかし、体制が、
人間の可能性を抑圧する力としてはたらくとき、
人はその体制を超えようとする。
そこに変革を求める。
思想は、何らかの意味で
変革を意図するところに生まれるものであるから、
変革者は必ず思想家でなくてはならない。
またその行為者でなくてはならない。
しかしそのような思想や行動が、
体制の中にある人に、
受け容れられるはずはない。
それで思想家は、しばしば反体制者となる。
少なくとも反体制者として扱われる。
孔子は、そのような意味で反体制者であった。
(P.119)
哲人はつねに、その生き方を問われる。
特にその体制における生き方を問われる。
その生きた時代のみでなく、
いつの時代においても、
歴史の上でそれが問い続けられるのである。
そしてそれを問うことは、
またわれわれ自身の課題である。
(P.126)
批判とは自他を区別することである。
それは他者を媒介としてみずからをあらわすことであるが、
自他の区別がはじめから明らかである場合、
批判という行為は生まれない。
批判とは、自他を包む全体のうちにあって、
自己を区別することである。
それは従って、他を媒介としながら、
つねにみずからの批判の根拠を問うことであり、
みずからを批判し形成する行為に外ならない。
思想はそのようにして形成される。
(P.175)
義は墨家において、最高の理念とされる。
「萬事、義より貴きはなし」というのが、その口号であった。
義とは、人の生きる道である。
ゆえに本来一人一義あり、
十人十義、百人百義であるから、
そこに乱が生まれる。
これを普遍妥当な義に帰せしめるのが、
大義であり、公義である。
「義とは利なり」の利はもと宜を意味し、
妥当性をいう。
しかしすでに人の義とするところが十人十義である以上、
義を普遍妥当ならしめる絶対の根拠がなくてはならない。
それは天志によって定められる。
「天は義を欲し、不義を惡む」とするのが、
その絶対的命法の根拠である。
ゆえに「天意に順うものは善政、天意に反するものは力政」である。
(P.192)
思想は本来、敗北から生れてくるもののようである。
(P.229)
以上です。
いかに白川静という著者が、
孔子を深く深く洞察し、
中国の歴史に精通するとともに
警報を鳴らしているのかがよくわかります。
読み継がれている名著とは思ってましたが、
さすがにこの深さたるや…感嘆しました。
評価
おススメ度は ★★★★☆ といたします。
巻末の解説に、
本書を読めばただちに分ることは、
孔子が神怪な中国古代社会の中を生きていた人物として
描かれていることである。
それは、倫理道徳の権化の<絶対的聖人としての孔子>でもなければ、
<人間の善意への信頼の中の孔子>でもない。
歴史的事実において、
より真実に近く、より具体的な孔子である。
と書かれておりますが、
まさに本書はその通りなのです。
私などは孔子というと
儒教を編み出した神のような人物と
認識してしまっておったのですが、
本書では人間としての孔子が描かれています。
若かりし頃は失敗ばかりで
放浪の旅に出ざるを得なかったり、
政治的には勝者と言えないどころか
完全に敗北者であったりするのです。
しかしだからこそ手に入れた思想が
儒教に繋がっていき、
こうして現代まで語り継がれた事には
とんでもない価値があるのだと思います。
私ごときが何を理解したのか?と問われれば
もう入り口の入り口、
ほんのちょっとかじった程度ではありますが、
この路線はもう少し深掘りしてみたく、
いずれ論語も読み込んでみようと思いました。
それでは、また…。
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