おはようございます。
読書がライフワークになっている
医療業界のコンサルタント
ジーネット株式会社の小野勝広です。
これはあくまでも私の個人的な経験ですが
年を取るほどに
難しい本が好きになり
読みたくなり、読んでいます。
それだけ若い頃は勉強しなかったという
反省を込めてではありますが
大人が勉強しないと言われる現代社会の中で
まあまあ希少な存在と言えるかもしれません。
学んだことは
できるだけアウトプットして
少しでも社会貢献してまいる所存です。
今回ご紹介する書籍は、
【 現代社会の存立構造 】 です。
本書をピックアップした理由
『 現代社会の存立構造 』
真木 悠介 を読みました。
本書の存在を知ったのが何だったか…
ちょっと忘れてしまいましたが
何だかピンと来たのですね。
この本は読んでおけという
神の啓示なようなものでしょうか。
私はそういう感覚は
わりと信じるほうですので
すぐにポチっと購入しまして
しばらく積ん読本棚にて眠っていたのですが
満を持して読み始めたのでした。
目次
まえがきーー大澤真幸
1 現代社会の存立構造──物象化・物神化・自己疎外
序 存立構造論の問題──社会科学へのプロレゴーメナ
一 社会諸形象の〈客観的〉存立の機制──物象化の原基的論理
二 疎外=物神化の上向的次元累進──物象化の重層的構成
三 経済形態・組織形態・意識形態──物象化の総体的展開
結 存立構造論の展開
2 疎外と内化の基礎理論──支配の論理と物象化の論理
序 外化をとおしての内化──労働の回路と交通の回路
一 外化の疎外への転回──収奪の論理と物象化の論理
二 共同体的な回路の転回──第一水準・疎外=収奪
三 商品世界の存立構造──第二水準・疎外=物象化
四 市民社会的回路の転回──第三水準・物象化的な収奪
五 資本制社会の存立構造
読解の二つの段階
『現代社会の存立構造』解題
序 外化をとおしての内化
一 外化の疎外への転回──収奪の論理と物象化の論理
二 共同体的な回路の転回──1〈疎外⇔収奪〉
三 商品世界の存立構造──2〈疎外⇔物神化〉
四 市民社会的回路の転回──3〈疎外⇔蓄積〉
結 物象化の総体的な展開──経済形態・組織形態・意識形態
『現代社会の存立構造』の行為事実を読む
一 トートロジーという嫌疑
二 行為事実的な媒介
三 社会現象の転換ヒステリー
四 Rの謎とその発展
五 三位一体論
六 行為としての思考
七 剰余価値の問題
八 「Aからの疎外」から「Aへの疎外」へ、そしてもう一つの疎外
結 「それ」を直視できるときは……
あとがきーー大澤真幸
感想
率直に申し上げて
大変に勉強になりました。
本書と出会わせてくれた神様に
心からの感謝をいたします。
前半は真木悠介氏の
「現代社会の存立構造」です。
正直、ちょっと難しかったですが
わからないなりに突っ込んでいくのは
私の長所でもありますので、
理解度は高くないまでも
しっかりと読み込みました。
そして後半は大澤正幸氏の解説ですが
これが良かった。
真木悠介氏の言わんするところ、
その背景や原点となる思想を知らしめてくれたので
理解度がグッと上がりました。
恒例の私がグッときたところをご紹介しますが
こちらを読むと本書への興味が高まるかもしれません。
まず、『存立構造』は、
『資本論』を読んだことがない人の中には、
思い込んでいる者が少なからずいる。
それゆえ、共産主義体制がほとんど崩壊した現在では、
『資本論』は通用しない、というわけだ。
直接には関係していない。
共産主義の成否とはまったく独立に、
『資本論』は、包括的な近代社会論として
読むことができる。
『存立構造』は、その立場から書かれている。
(P.13)
これはまえがきに書かれていたのですが
もうこの段階で読む気がさらに高まりました。
当書評ブログをお読みの方は
このような勘違いをしている方はいないと思いますが
世間一般ではこんなイメージが定着しているでしょうか?
いやそもそもマルクスって誰?何した人?
そんな人が増えているかもしれませんね。
たとえばサルトルは必然性の経験について、
それは私が自由ではないからでなく、
他人もまた自由であるからである、
あるいは歴史における必然の経験について、
それは私が歴史を作らないからではなく、
他人もまた歴史をつくるからである、と語っている。
私だけが主体性をもつのではなく、
他人もまた主体性をもつこと、
このことは実存主義者でさえ、
およそ現実への感覚をもった実存主義者ならば、
みとめざるをえない当然の事実である。
だからこそ歴史は、
個人が作るのでもないし、
またぎゃくに個人とは無関係に外在する
実体としての「社会」の自由運動でもない。
たくさんの「私」たちの相互作用の総体として
それはおりなされていく。
社会とは、その実相は、私、あなた、彼、
そういった無数の人びとの
実践的な相互関係の総体である。
(P.37~38)
現代社会ではこの複雑性を見失い
とにかく簡単に、わかりやすく、
表層的な論調が増えており、
それが社会全体にとって
マイナスに作用しているように感じます。
相互関係とは
構図、構造、仕組みの問題でもあり
私はここを学ぶためにマルクスを読んでいます。
今われわれが現代社会の総体的な存立構造の把握を
みずからの課題となすかぎり、
『資本論』論理の射程は一経済領域を超えて、
この交響する「伴奏」の総体において追求され、
把握されなければならない。
(P.65~66)
この伴奏こそが
政治的・イデオロギー的な
諸形態への言及となるわけですが
これを知らずして社会を本当の意味で知ることは
なかなか難しいと思うんですよね。
そこに斬り込んだのは
やはりマルクスの凄さであり
だからマルクスの書籍は
今でも読まれるのだろうなと強く感心します。
マルクスはたとえば資本が労働をaneignenする、
という言い方をするが、
このときそれは、たんに資本が、
労働(力)を購買し取得する、
あるいは領有し
支配するということを意味するのではなく、
資本が労働をその胎内にとりいれて、
その身体の一部とする、
有機的構成の一契機とすることによって、
みずからを活性化し醗酵せしめる、
というイメージを含んでいる。
(P.108)
資本とは何か?
私たちは資本金とか
単なる出資金のような理解をしていますが
私は資本をいかに理解するかによって
この社会との向き合い方が決まるように感じています。
長短ありますし
知らぬまま生きても別に問題ありません。
ですが、一応、経営者の端くれである私としては
資本を理解しないと社員に顔向けできないと
なぜかそう感じているのです。
でもなかなか理解できません。
だから学び続けるしかありません。
認識において世界は、
滑走において雪原は、
解体して消滅するわけではないし、
他の主体による同様な内化を排除するわけではない。
雪原は私のものとなり、
同時に彼のものとなる。
世界は私のものとなり、
同時に彼等のものとなる。
(P.111)
自分を主語にしてしまうと…
自分を中心に物事を考えると…
社会を見誤るのは
こういうことなのだろうなと痛感しました。
百人の人間集団のうち、
最も怠惰な二人のみが
飢えて死なねばならないという法則は、
百人の集団すべてを勤勉に向って駆り立てるだろう。
「相対的過剰人口」の問題はたんに、
結果として定住する人口の数パーセントの
「失業者」の問題ではない。
この法則の現実的な意味の射程は、
一国の労働者階級の全体を、
たえず資本の要請に適合するものとして、
自己陶冶し自己成形せしめる
無言の圧力として作用すること、
すなわち彼らを、この資本物神によって
<意味づけられるもの>として、
現実にみずからを定住せしめるということにある。
(P.166~167)
資本家と労働者。
社会の仕組み。
本当にしっかり学んでおかないと
カネの力で資本家のいいようにやられますね。
それは資本家にとってメリットは大きいけれども
個人個人や、社会全体にとっては
とてつもないマイナスがあります。
私たちは「奴隷」にならぬよう
常に権力者と対峙する気概を持たねばなりません。
そのためのマルクスの勉強ですね。
このように独占利潤の蓄積が
みずから市場の狭溢化と
資本の過剰とを招き、
この矛盾の止揚としての資本輸出が、
他民族への抑圧と帝国主義諸国の緊張を
帰結することはもはやいうまでもない。
(P.197)
所詮、資本主義というのは
収奪すべき対象を必要不可欠としており、
次々と無理難題を押し付けて
強引に奪ってきたのが人類の歴史でもあります。
もう世界中を探しても
収奪できるところはなくなりつつあり、
果たしてこのままでいいのか?
今までと違う経済システムを考えるのか?
現代はその瀬戸際のように感じます。
労働者の労働は、
一方では、資本のうちに、
一個の部品=客体のように組み込まれつつ、
他方では、主体的な活動・実践でもなければならない。
労働者がー機械とは違ってー主体であるからこそ、
(剰余)価値を生産することができるからである。
したがって、労働者は、半ば客体でありつつ、
半ば主体であるという、
あいまいな性質を帯びなくてではならない。
(P.265)
この資本主義社会の中で
私たちはどう生きるべきか?
どこにポジションを取るのか?
もちろん正解のある話しではありませんが
システムの現状を知らねば
一向に見えてこずにもがき続けるしかありません。
自分なりのポジションを取るためにも
資本主義の長短は知っておきたいですね。
支配階級は、
疎外された状態を「幸福」として生きてしまうので、
曽我井の事実に概して無自覚になる。
被支配階級は、
疎外を「不幸」として生きるので、
疎外を成り立たせる現実的な契機を、
つまり価値の価値は何なのか、
役割の役割はどこにあるのか、
意味の意味は何かといったことを疑い、
問い返す機会をもつだろう。
(P.278)
これこそが「存立構造」の本質でしょうか。
そしてこの構造を知ることで
何度も問い返す必要が出てくるのだと思います。
支配階級の好き勝手にさせていたら
人類は滅ぶかもしれません。
革命とは常に支配階級との闘いでしたからね。
社会現象の謎の核心は、
何を意識しているか、
何を知っているかというところにあるわけではない。
そうではなくて、
何をしているかというレベルに、
行為の水準にこそある。
だが、こうした言明は、すぐさま、
反問や批判を呼ぶことになるだろう。
意識に先立つ行為の水準とは、
いったい何を指しているのか。
行為とは、主体が目的を設定し、
自ら意味づけている行動、
つまりは意識に統御されている行動のことであって、
自覚的な意識から
独立の好意など存在しないのではないか。
もし行為をこのようなものとして捉えないのだとすれば、
「人の意識の内容は、
その人の現実の行動によって決まる」という
ーたとえば強制的にでも礼拝に参加させていれば
信仰も生まれるというー
かつての行動主義者の教えと同じものに
帰着するのではないか。
(P.289~290)
意識し、行動する。
学び、実践する。
人生というのは意外とシンプルだけど
シンプルなだけにできないものかもしれない。
しかし人類が生存し続けるために
平和を守り、適度に経済を発展させるためには
このシンプルな活動こそが
大前提となるのでしょうね。
実際、われわれの貨幣のことを考えてみよ。
なぜ、われわれは貨幣による支払いを受け入れるのか。
どうして、われわれは貨幣を欲望するのか。
貨幣の物質的な性質は、
われわれが貨幣を求めることの原因ではない。
貨幣には、支払い手段に用いられるということ以外には
いかなる使用価値もないのだから、
<私>が貨幣を受け入れるのは、
他者がー<私>の支払いの相手となる<他者>がー
貨幣を受け取るということへの
信頼にのみ基づいている。
<他者>が<私>の支払いを受け入れることは、
とりあえずは、貨幣の所有者としての<私>を、
その<他者>が承認したことを含意している。
だが、その他者が<私>が支払いのために提示した
貨幣を受け入れたのはなぜかと言えば、
<他者の他者>が貨幣を受け入れるからであろう。
その<他者の他者>が貨幣を受け取り、
貨幣を求める理由もまた、
<他者の他者の他者>が貨幣を受け入れるからだ。
以下、同じ論理が無限に繰り返される。
したがって、<私>が貨幣を所有すること、
そして<私>の支払いが受け取られるということは、
無限の<他者>を包括する
普遍的な「他者」によって承認を受けたことに等しい。
(P.304)
スゴイですね。ま、そういうことですよね。
で、カネに生きるか?
カネをツールとして
もっと大切なことを見い出すか?
そこが我々の存在価値でしょうね。
評価
おススメ度は ★★★★★ と満点といたします。
私は人を知ること、
そして社会の仕組みや構図、構造を知ることを
読書の基礎として、基本的スタンスと考えています。
その意味では本書はモデルケースとなるような
素晴らしい学びの詰まった1冊でした。
「存立構造」ですから
私の考えとは相性が良かったのかもしれません。
それでは、また…。
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